1999話 最近読んだ本の話から その10(最終回)

 どうも、民俗学というものにあまりいい印象がない。例えば、住宅や農機具や農耕儀礼の話を展開しても、それは日本を出ない。農機具など、農作業をやる世界の全地域にもあるのに、日本のものしか取り上げないのが民俗学で、知の狭さにうんざりしているのだ。1冊の本のなかで、世界のすべての事例を取り上げよなどという無理は言わないが、書き手の頭の中に日本以外の事例がある程度は頭に入っているかどうかだ。

 民俗学に限った話ではないが、研究分野や地域を狭く限ってしまうと、研究が深くなるようでいて、じつはなにもわかっていないということになりかねない。A村の研究を10年やっても、山向こうのB村や海岸沿いのC村や離島のD村の事例もある程度頭に入れておかないと、A村の姿が浮かび上がってこない。つまり、A村のことがじつはわかっていないということになる。

 『米の日本史』佐藤洋一郎中公新書、2020)は、農学者が書いた日本の米の話なのだが、目いっぱい手を広げている。だから、あとがきでこう書いている。

 「歴史学など文系の学問から遺伝学など自然科学まで網羅的に扱うのはわたしの手にあまる大作業であった。一応完成させた原稿も十分なものとはいえなかったが・・・」

 つまり、間違いや勘違いもあるだろうが、とにかく広い話をしたかったということだろう。推察や想像も書くから、「・・・かもしれない」や「だろう」という文章にならざるを得ないのだが、学会ですでに事実認定された事柄だけを並べた本なら、「・・である」と断定して書いていけるが、それではおもしろみがない。

 じつは、佐藤さんの本はかなり読んでいて、教えられることが多いが、同時に「これ、違うぞ」と思うこともあり、直接メールを送ることもあった。素人が専門家に対してなんたる無礼といえばそうなのだ、まあ、許してもらっている。

 某教授や某々教授や某ライターのように、研究発表で「これは、日本独特」とか「日本の米は世界一うまい」などと平気で口にするのとは次元が違う。素人受けをねらって非科学的な話をするのと、より広い分野に足を踏み入れようとしての勇み足とを同列に扱ってはいけない。

 日本最初の稲作のイメージは、教科書に載っていた登呂遺跡での稲作風景なのだが、湿地や水田から始まったのではなく、陸稲から始まったとすれば、「古代の稲作」のイメージはだいぶ変わる。水田跡の発掘事例はいくらでもあるが、焼畑陸稲を栽培したという痕跡は見つけにくいのだが、稲作のイメージを山地にも広げてくれる本だ。ラオスやタイの研究成果が、こういう記述に表れる。古代の米をどうやって料理して、どうやって食べたかという想像をしつつ、米の日本史を語っていく。

 内容が多岐にわたるので、素人の私には着いていくのがつらい記述も少なくないのだが、それとは別に不満と言おうか、要望もある。日本人が大きくかかわった朝鮮や台湾やその他の地域の米つくりに関して、10ページか20ページくらいの記述があるべきだとは思うが、おそらく書きたいことが山ほどあって、触れないことにしたのだろう。

 佐藤さんのほかの本でも書いていることだが、「米粒の長いのがインディカ種で、それより短く丸みを帯びているのがジャポニカ種」とか「粘りの少ないのがインディカ種で、粘りのあるのがジャポニカ種」という定説となっている区別は、じつは間違いだと佐藤さんは説明している。世界の米を調べれば、丸いインディカ種もある。見た目で両者の区別はつかないという。私がこのブログで何度も書いているのは、「インディカ種の米はパラパラ、パサパサという記述は多いが、インディカ種のモチ米もありますよ」ということ。こういう基礎を書いておかないといけない。ある大学教員の文章に、「世界の米は、ジャポニカ種とインディカ種とモチ米の3種です」とあって、腰を抜かしたことがある。じつは、そういう記述は少なくないのですよ。

 既読未読の本が積んであるので、本の雑談はいずれ、またということで・・・。