2000話 たんなる通過点に過ぎないが その1

 今回で、連載2000回になった。ある記録に到達したスポーツ選手がよく口にするように、「数字はたんなる通過点に過ぎないので・・・」という感じはよくわかる。2000回書くことを目標にしていたわけではなく、書いているうちにいつの間にか2000回になっただけだ。

 1回分の原稿量が平均1500字とすると、2000回で300万字になる。昔風に、原稿用紙換算だと7500枚だ。これは新書や単行本などにすると18~20冊分くらいになるのだが、2002年から2023年までかかっているのだから、たいしたことではない。しかし、やはりそれなりの感慨はある。いままで日本にいるのに長期休載をしたことがないのは、健康だったということであり、書きたいという好奇心や探求心が枯渇しなかったということだ。

 このブログ、「アジア雑語林」誕生のいきさつはすでに書いたことがあるが、この際だからあらためて書いておくことにしよう。

 そもそもは、神田神保町すずらん通りにあったアジア専門書店アジア文庫から始まる。アジア文庫では販売促進のために、「新刊案内」という小冊子を発行していた。新刊のリストだけだから手に取る人は少ないからと、本に関するエッセイを載せることを提案した。私が「活字中毒患者のアジア旅行」というエッセイを書く。原稿料は、原稿執筆に必要なタバコ代相当(当時は並外れた喫煙者だった)と提案したのだが、「それでは申し訳ない」と店主の大野さんが僅少でも原稿量を支払うというので、原稿料は積み立ててもらい、それを図書購入費のタシにした。

 原稿執筆は、原稿用紙に鉛筆書きし、郵送することで始まり、ファックスになったが電話料金が高いので、数話分を郵送していた。のちにワープロ専用機(東芝ルポだ)を導入してからは、フロッピーディスクに記録して、郵送していた。2002年にアジア文庫がホームぺージを開設し、私のエッセイは「アジア雑語林」として週1回程度書くことにした。

 大野店主がパソコンを導入してからも、フロッピーディスクを郵送していたが、ホームページを開設してからは、大野さんから手ほどきを受け、我がパソコンで書いた原稿をアジア文庫のパソコンに送るという技術を教えてもらった。しかし、ホームページは長く続かなかった。2010年1月に大野さんが急逝して、アジア文庫は閉店し、当然、ホームページもなくなり、「アジア雑語林」の連載も終えた。なお、アジア文庫とアジア関連書の軌跡は、『アジア文庫から』という本に詳しい。まだ残部があるそうなので、関心のある方はめこんに注文するといい。

 それから半年ほどたって、かの蔵前仁一さんから電話があり、「『アジア雑語林』の続きをウチのホームページで再開しませんか?」というお誘いを受けた。その時の話は、276話に書いた。つまり、275話はアジア文庫HP最後のブログで、この276話が旅行人HPの最初ということになる。アジア文庫時代は大野店主が編集をすべてやってくれていたから、わたしは原稿を送るだけで済んだのだが、今度は自分でブログのデザインなどをやらないといけないのだが、そんな高等技術は前川には到底無理だとわかっている蔵前さんは、旅行人元編集者の田中元さんにすべてを担当していただく手配をしてくれた。おかげで、このアジア雑語林ができた。アジア文庫の大野さんと旅行人の蔵前さんと田中元さんのおかげで、のんきにブログを書いていられる身分になったのである。

 アジア雑語林を読み返したら、このブログ誕生のいきさつが上に書いたこと以上に詳しい文章が見つかった。「見つかった」などと他人事のようだが、私が書いたのは間違いないが、すっかり忘れてた。1434話(2020-06-25)からなんと10回にわたって書いている。ブログという性格上、読者が入れ替わるから、意識的に同じ話を何度も書くことになるから、こういうことになる。