21話 ものすごくおかしいぞ、千葉敦子


 仕事上の必要があって、千葉敦子の本を初めて読んだ。「ガンと戦いながら書きつづけたジャーナリスト」という面が強く宣伝されていたのは知っていたが、その著作は一冊も読んだことがなかった。
 今回読んだのは、『ちょっとおかしいぞ、日本人』。単行本は新潮社から1985年。新潮文庫に入ったのが1988年。私が買ったのは2000年の「25 刷」(!)の版。ベストセラーになっているこの本は、じつは相当におかしいのである。あまりにおかしな本だから、出版時に誰かが指摘しただろうと思うが、 私は読んでいないので、過去は気にせずに書く。
 この本を読みながらふと思ったのは、千葉敦子というのはアメリカ人のペンネームじゃないのかということだ。イザヤ・ペンダサンの逆で、外国人が日本人に なりすまして原稿を書いたのではないかと疑った。文庫の著者略歴によれば、東京新聞の記者からアメリカに留学し、のち海外紙誌の東京特派員になったそうだ から、どうやら日本人らしい。
 なぜそんなことを思ったかというと、この本の骨格となっている思想、あるいは論理は、アメリカにあって日本にないものは日本が遅れている証拠であり、日 本にあってアメリカにないものは日本が遅れている証拠であるという考え方である。それを骨子として、めちゃくちゃな理屈をこねる。
 「アメリカ万歳」理論の例には、こんなものがある。
 スリッパというものは寝室で使うものなのに、日本人は玄関にスリッパがあるのは変だとしながら、金髪の西洋人がホテル・オークラでキモノを着てハイヒールを履いている姿は批判しない。
 日本の雑誌のタイトルが外国語かそれ風のものばかりという批判は私と同意見なのだが、彼女の批判理由は、「LEE」は日本人が発音できないからダメとい う理屈だ。日本人は外国語をやたらに使うと批判している当人が、これまた本文でやたらに英語が出てくる。「外国人は、よく日本人のこうした meticulousnessを嫌ったり……」といった具合だったり、「名刺はあくまでreminder」とか、「ああいうcoyness」とか……。こ ういう文章は嫌だ。英語の教科書じゃないんだから。
 あるいは、アメリカのスーパーマーケットには十数種類のシャンプーがあるが、日本ではあまり種類がない。これは人生の選択の幅が狭いということだという 論理。めちゃくちゃだぜ。例えば、文房具について言えば、日本のほうがはるかに種類が多い。例を変えれば、この論理は簡単に崩れる。
 本文2ページ目に、こんな文章が出てくる。
「いずれの国民もそれぞれにいろいろなクセを持っていますが、日本人はクセの多い国民だといわれます」
 おい、おい、誰がそんな非論理的なことを言ってるんだよと、ツッコミながら読み進むと、あとの部分の、日本人は自己主張をしないと強く批判している文章 で、その例として発言者を明確にしない「………といわれていますけど」という言い方を挙げている。こういうのを、日本では「天に唾する行為」という。他を 批判しようとして、自分に批判を浴びることになるということだ。
 この本で唯一よくできていると言えるのは、中山千夏の解説だ。なぜ中山がこの文庫の解説を引き受けたのかわからないが、けっしてほめてはいない。それど ころか、「千葉さんが、ほかの国、ことに近隣の外国に住む時間を持てなかったことが、とても残念だ」と書いている。千葉の「外国」とはすなわちアメリカで あり、外国人とはアメリカ人を中心とする西洋人のことだった。そんな狭い視野から日本批判をでっちあげた。中山千夏には、その欠点がはっきりとよく見えて いた。
 こんな本がベストセラーになるのだから、その点ではたしかに「ちょっとおかしいぞ、日本人」である。