30話 東南アジアの小説を巡る話 (3)


  東南アジアの小説をもっとも熱心に読んだのは、80年代なかばだった。食文化の資料として、ノートをとりながら次々と読んでいった。それ以前に出ていたタ イの小説は当然すでに読んでいたが、食文化にポイントをしぼって読んでいくと、それまで見えなかった部分がより鮮明に浮かんできた。そして、旅をしてから また読むと、訳注の説明もかなりわかるようになった。
 先日も、タイの淡水魚の利用について調べたくて、『東北タイの子』(カムプーン・ブンタヴィー、星野龍夫訳)を拾い読みした。1980年に出た本で、タ イ旅行にも持って行っているから、すっかり黄変している。黄変米ならぬ、黄変本になってしまった主たる理由は、タバコの煙で燻蒸したからで、それはまあし かたがないのだが、小さな活字の二段組が少々つらい目になってきたと感じた。老眼鏡など使わなくてもまだ読めるが、長時間読み続けるにはちょっとつらい。
 「この本はすでに絶版になっていますが、別の出版社から出す気はありませんか」と星野さんに言うと、「それなら、改訳してもいいなあ」という。星野さん にとっても愛着のある作品だ。しかし、どこか別の出版社が出す可能性はほとんどない。売れないからだ。二段組264ページの本を、活字をやや大きくして一 段組にすれば、上下二冊本になる。あるいは、かなり厚い一冊本になって、定価はおそらく5000円だろう。たとえ3800円だとしても、現在の読者はそれ だけのカネを小説に対して支払わない。いや、値段の問題ではないかもしれない。ありえない仮定の話だが、井村文化事業社の「東南アジアブックス」が、筑摩 か岩波の文庫になったとしても、たぶん売れない。
 小説嫌いの私が言うのは変かもしれないが、井村やめこんから出ている東南アジアの小説は、タイに限らずビルマのものも、あまた出版されている滞在記や旅 行記を読むよりはるかにおもしろいし、雑学が身につく。観光案内はないが、そんなものは旅行ガイドを読めばいいのだ。できの悪い新刊書を数冊買うなら、そ のカネで翻訳小説を買ったほうがいい。
 そう思えるようになったのは、東南アジアの小説をかなり読んだから言えることで、私とて読む前からわかっていたことではない。タイの小説は最初からおも しろく、次々に読んだが、フィリピンの小説となると、ちょっとてこずった。ホセ・リサールの『ノリ・メ・タンヘレ』は、リサール関連の文章を続けて読んだ ので、その延長で400ページ以上ある大著を買った。まだアジア文庫が開店する前なので、八重洲ブックセンターで買ったことまで覚えている。
「十月末のある日、カピタン・チャゴという名でひとによく知られているドン・サンチャゴ・デ・ロス・サントスが、晩さん会を催した。」
 この書き出しで、もうダメだ。何度か読んでみようとして、ついに1ページも読めなかった『戦争と平和』を思い出し、本を閉じて書棚に納めた。その後、何 度か挑戦してみたが、基本的に小説と相性が悪い私はいかにも西洋の小説という感じの『ノリ・メ・タンヘレ』が読めなかった。
 ついにこの小説を読破したのは、長い旅から帰ってきたときだった。手持ちのカネは旅で使い果たし、新刊書を買う余裕はなかった。そこで、買ったものの読 んでいない本を書棚から取り出して、片っ端から読み始めた。その一冊に、『ノリ・メ・タンヘレ』も当然入っていた。日本語の本に飢えていたということも あったのだろうし、ちょっと前までいたフィリピンを思い出していたということもあったのだろうが、たちまち読み終えた。おもしろかった。
 現在入手できる本は、絶版になる前に買っておいたほうがいい。「そのうち」などと考えていると、あとで読みたくなってもなかなか入手できない。それはど んな本でも同じなのだが、将来インドネシアであれ、タイであれ、ビルマであれ、どこかの国のことをじっくり調べてみたいと思っている人なら、なにを置いて も、翻訳されたアジアの小説を入手しておくことだ。それが、いつか役に立つ。すでに絶版になった本が多いが、図書館で探すか、インターネットの古本屋で探 すといい。現在販売中の本もいつ絶版になるやもしれぬ。いまのうちに、買っておいたほうがいい。