75話 ゴーストライター



 もう時効だから書いてもいいと思うが、関係者の許可を得ていないので、ボカして書くことにしよう。
  かなり昔の「本の雑誌」の投書欄に、某有名学者が書いた本を取り上げて、「ゴーストライターが書いたひどい本だ、編集者も出版社も恥を知れ」といった意味 の批判が載ったことがある。その本を出している出版社に、知り合いの編集者がいた。投書が載った数カ月後にたまたま彼に会ったので、世間話のなかで、「そういえば、こんな投書が載っていましたが……」とあの投書のことを口にした。そのときの彼の話を思い出して書いてみる。

 ええ、あの投書ね、読みましたよ。じつはね、あの本の担当編集者はこの私なんですよ。だから、ちょっと困ってるんですよ。これには深い事情がありましてね。
  あの本は、先生に2時間くらいの話を数回してもらって、それをライターが原稿にまとめるという企画だったんです。本当は、もちろん本人に書いてもらいたかったんですが、超多忙な先生に書き下ろしで一冊なんてとても頼めるわけもなく、ライターに原稿をまとめてもらったわけです。
 すぐにでも出したい本だったんで、1章分できると、ボクが原稿をチェックしたあと、原稿をコピーして著者に送って、手を入れてもらうわけです(当時はまだワープロさえあまり普及していない時代だから、原稿は当然手書きだ)。
 第1章を送ったら、ものすごい書き込みと削除なんですよ。だから、印刷所に送るには、はじめっから書き直して清書ですよ。第2章を著者に送ったら、すぐ に電話がかかってきました。「またこんなひどい原稿を送ってきて、なんだ! ちゃんと話をしたのに、文章がひどすぎる。間違いが多すぎる。あんた、原稿をきちんと読んでいるのか!」と、すごい剣幕でご立腹なんですね。「もう、やめだ。こんな本!」といわれると困るので、ひたすら低姿勢ですよ、当然。そりゃ、こちらで依頼したライターは、特別腕のいいという人じゃないですよ。でも、合格点には達しているレベルですよ。それに、著者が加筆している部分はインタビューのときにまったく触れていない話題なんですから、それに触れていないとライターを責めるのは酷ですよ。
 ひたすら低姿勢で電話の応対をしていたら、先生は驚くことを言い出したんですよ。「こんなに手間がかかって、しかも何の実りもない作業を続ける気はもうない。最初から私が書きます! ライターはクビ!!」。
 そりゃ願ってもないことですよ。できればそうしたいと、こちらも思っていたわけですから。そして、数カ月後に送られてきた原稿をそのまま本にしたのが、 あれです。あの本ですよ。ひどい文章ですが、もう直しの注文なんかいえません。まあ、ウチとしては先生の名前が欲しいわけですから、内容はどうでもいいとはいいませんが、まあ、二の次ですな。そんなわけですから、ゴーストライターの作品じゃないんです。語り下ろしでもないんです。もしかすると弟子か誰かに 書かせたかもしれませんが、それはこちらの関与しないことです。
 そんな事情があるんですよ。だから、「本の雑誌」に反論の投書なんてできっこないでしょ。「私は、先日この投書欄で『ゴーストライターを使って……』と 批判された本の編集者ですが、原稿を書いたのは間違いなく著者ご自身です、たしかにひどい文章ではありますが、ゴーストライターは使っていません。もし、 ライターが原稿を書いていれば、もっと読みやすい文章になったはずです」なんて、とても書けないでしょ。ただ黙って、書店からあの本が消えるのを待つだけ です。そういう事情があったわけですが、どうかこの話はご内密に。オフレコということで。