『食べ歩くインド 北東編』『同 南西編』(小林真樹、旅行人)を読みながら、傍線を引き、付箋をつけた部分に関して、発見や疑問や調査や思い出などさまざまな事柄を、これから書いていこうと思う。
最初に私の立場を明らかにしておくと、インドやインド料理に関する私の知識は、この本を読んだ人の中で、おそらくもっとも低いだろうと思う。つまり、私はインドにもインド料理についても、ほとんど何も知らないのだ。しかも、食べ歩きに興味もないし、食べ歩きエッセイやガイドを、いままでほとんど読んだことがない。この本は、著者が食べ歩いたインドの料理と料理店の解説とガイドだから、著者の意向と私の関心は方向が違う。
インドに行ったことがないわけではないが、最後に行ったのは1978年のボンベイだ。小林さんが生まれる前の話だ。エジプトに行く途中に1週間ほど立ち寄っただけだ。それが3度目のインドでしかも最後だから、私の知識はボンベイであり、カルカッタであり、マドラスのままだ。インド関連の本は翻訳小説も含めれば40冊くらいは読んでいるだろうが、たいした量ではないし、知識が反復されないから、過去の読書が霧の中に消えている。わかりやすく言えば、「もう、すっかり忘れた」ということだ。
食べ歩きには興味はないが、食文化には多少の知識と強い興味がある私が、いわゆる「インド好き」の人たちがいままであまり書いてこなかった話を書いていきたい。それが私の『食べ歩くインド』の読書ノートだ。
この本を読んだ人は、著者である小林さんの行動力や調査する根気や好奇心、そして2巻本もの原稿を書く地道さに感心したことだろう。私もその点では同じなのだが、書き手よりもむしろ、本を作る側を讃えたい。書き手は、書くことを楽しんだだけだ。旅することも、調べることも、文章にすることも、大いに楽しんだはずだ。食べ歩く毎日が、たまらなく楽しかったに違いない。つまり、道楽である。遊びだから、精いっぱい、充分に堪能したのだ。私自身の体験で言えば、文章を書くために、現地で調べ、図書館に通い、古雑誌やマイクロフィルムを読む日々が続いたり、古本屋歩きをしたり、山と積んだ資料を読んでいったりしたが、それが「苦しかった」という思い出など、まったくない。新しい事実がわかり、さらに調べれば、それが誤りだったとわかったり、毎日が実に楽しいのだ。小林さんも、きっとそういう体験をしてきただろうと思う。やっていることが道楽と考えないと、こんな大変な本は書かないのだ。取材費は印税で賄うという経済を考えたら、インド亜大陸全域取材などという不経済なことはできるわけはない。そういう取材をやってみたいという「もの好き」にしか、こういう本は書けない。小林さんほどの道楽者は他にいそうもないので、この本を超える類書は今後出版されない。カネを稼ぐことを考えるなら、「詳しいカレー本」を書く方がずっと楽だ。
編集者やブックデザイナーや出版社社長(この本の場合、その三者は同一人物なのだが)は、楽しいだけでは仕事にならない。道楽ではできない。インドに詳しいという点では、蔵前さん以上の編集者もブックデザイナーも出版社社長もいない。その蔵前さんが、著者よりも原稿を精読し、内容の整合性を考え、細部にわたって誤記誤字脱字を探さないといけない。当然だが、全ページのデザインをしているのだ。そして、この本がもしも売れなかったら、版元としてその責任を負うことになる。つまり、損をするということだ。
普通、書評は書き手をほめるのが常識だろうが、私は編集者の努力を評価したい。書き手や編集者なら、この本のゲラ(試し刷りの束)を前にしたら、逃げ出したくなるだろう。ただ読むだけなら、楽しいだろうが、校閲するとなると、気が重くなるはずだ。
実は、そういう行為の千分の一ほどのことを、私はこれからやろうとしているのだ。日本語のテニオハとか文法を点検するわけではないし、インド料理名の表記もいっさい気にしないが、食文化に関わる部分だけ、読書ノートという感じで書いていこうと思う。