85話 英語が先か日本語が先か


 将来、日本人が国際社会で充分に活躍できる ように、小学校から英語を教えるべきだなどと言い出す人が少なからずいる。あるいは、小学校ではすでに遅いから、幼稚園から始めるほうがいいという人もい る。そういう人は、よほど物事を考えない人か、たんなる西洋コンプレックスのかたまりだとしか思えない。
 国際会議の運営に長らくかかわっってきたという日本人が、こんなことを言っていた。「国際会議、とくにアジアの会議を成功させるには、インド人出席者の口をどれだけ封じられるかであり、日本人出席者の口をどれだけ開けさせるかということです」
 インドを旅したことがある人なら、インド人の質問好きと議論好きに出会って、閉口した経験があるだろう。それはともかく、インド人やシンガポール人や フィリピン人が会議でよく発言するのに対して、日本人がおとなしいのは英語が不得意だからと説明する人がいる。この意見には大方の賛同を得られそうだが、 じつはまったく説得力がない。
 日本国内の会議を考えてみればいい。企業でも役所でもいい。そういう場の会議に私は無縁なのだが、おそらく、たいていはこんな具合だろう。上司が一方的 に話し、部下がメモをとっているだけ。あるいは、発言はあるが、発言者はほぼ決まっていて、大多数はずっと無言のまま会議が進行する。そして、会議が終 わってからの酒場で、あーだこーだと不満を口にする。あるいはまた、根回しができていて、会議をやる前にすでに結論がでているというような会議。
 こうした会議で発言しない人は、日本語が不得手だからだろうか?
 その点に気がつけば、国際会議で日本人の発言が少ないのは、外国語力の問題ではないとすぐにわかるはずだ。日本語の会議でも、出席者の多くは発言しない のだから、言葉の問題ではない。会議で発言しない人がいくら英語を学んでも、国際会議の談論風発の輪に加われるわけはない。日本語できちんと発言できない 人は、当然英語ででも発言できないのだという単純な理屈が、早期英語教育派はなぜ理解できないのだろうか。英語さえ学べば、そしてアメリカ人の発音に少し でも近づければ、国際社会で堂々と意見を述べることができるという幻想は、残念ながらなかなか消えない。
 だから、まず必要なのは、ある事柄に関する知識であり分析力であり、判断力だ。次に、それをきちんとわかりやくい言葉で伝えられる日本語力だ。人前で話す能力だ。例えば、論点を30秒でまとめて、意見を言える能力である。英語を学ぶのは、そのあとでいい。
 アメリカに留学したことがある人の話では、学校の授業や職場の会議で発言しない人は考える能力のない人間だと見なされるので、「無能」の烙印を押された くないために、意見などなにもないのに発言を求め、たんなる感想を口にする人もあるそうだ。自己主張の国で、主張したい自己がない人はつらいのである。
 もしも、「無言は無能だ」とされるのが国際社会ならば、「遠慮」「控え目」「奥ゆかしさ」「和」といったことを美徳とする社会とはいったん縁を切らなけ ればいけない。つまり、日本人社会で「いやなヤツだ」と言われるような人間にならなければいけないのである。「オレが、オレが!」の社会の住人にならなけ ればいけないのである。
 日本の会議で発言者が少ないのは、「和を乱してないけない」とか「若輩者はおとなしくしているべき」といった”伝統”や、「発言すると責任をとらされる から黙っていよう」といった感情があるからでもある。日本人に思考力がないというわけではないが、思考した結果を会議で発言していいのは、限られた者だけ の権利だという長幼の序や男女差別意識が会議を支配している文化で育っていれば、いくら小学校から英語を教えても効果はない。
 義務教育で求められる英語力というのが、旅行中に道をたずねる程度の会話力というのであれば、英会話学校に行けばいいのだ。小学校で、他の教科の授業時 間を削って英語を教える必要はない。仕事で使える英語力を求められるなら、仕事ができる能力をつけることがまず必要であり、次に仕事で立派に使える日本語 力を鍛えることであり、英語に力を入れるのは、そのあとでいい。