766話  インドシナ3国・思いつき散歩  第15回


 ホテル

 ホテルにはいくつかの法則がある。「一度贅沢なホテルに泊まると、それ以下のホテルには泊まりたくなくなる」という法則は、多分ほかの人にも当てはまるだろう。別の街に移動してしまえばそれほど気にならないが、同じ街で安いホテルに移動するのは私でも気が重い。
 「住めば都」というのも、私のホテルの法則である。「ここ、ひどいなあ」と思うようなホテルでも、何日か過ごしているうちに、なんだかなじんでくるということがある。それは窓から見える景色が捨てがたいのもであったり、宿のスタッフとの相性であったり、宿の立地条件だったりと決め手はいろいろあるのだが、初日の悪い印象などすぐに消えて、いとしい宿に変わる。ニューヨークでしばらく泊まっていた宿は、シングルベッドよりも一回り広いくらいの小部屋だったが、ベッドよりも大きい窓からブロードウエイの劇場街が見えて、いつしかいとおしい宿となった。そういう体験は、数多くある。
 ベトナムの初日、ハノイの宿は、街に着いてから歩いて探そうと思っていたのだが、旅に出る前のある夜のこと、ハノイの安宿の相場はどのくらいかとインターネットで調べていたら、ホテル予約サイトに「格安物件」を見つけた。写真で見る限り、私が考える「安宿」の範疇を超える「高そうなホテル」なのだが、料金はこうなっていた。
 「8800円 現在キャンペーン割引中 今すぐ予約すれば78%OFF」
 2割引きや3割引きなら理解範囲だが、78%引きは常識を超えている。しかし、紹介しているのが信用できそうなホテル予約サイトなので、一か八か、おもしろそうなので、到着当日の夜の予約を入れた。インターネットで調べると、ハノイのシングルルームは最低クラスで20米ドル前後というところらしい。それより安い宿は、不便な場所にあるか、2段ベッドが並ぶドミトリーしかないようだ。ベトナムでは、ホテル料金は米ドル表示されることが多い。20ドルだと2500円ほどだ。8800円の78%引きは約2000円だ。こうして、私はゴールデン・スプリングホテルと出会った。
 このホテルが良かった。まず、広い。シングル予約だがツインの部屋で、LGの薄型大型テレビが壁にかかっている。私のなじんでいる安宿というのは、シャワー・トイレ共同、テレビはないか、あってもほとんど映らない。天井で扇風機が回っている。このレベルから、シャワー・トイレが部屋にあるというというレベルまでの間で、「エレベーターがあるのはすごい」という感覚が私にはある。このホテルにはもちろんエレベーターがあり、ホットシャワーがあり、使わないが浴槽もある。私のような貧乏旅行者だけではなく、「新工場立ち上げのために、ひと月滞在」という日本人出張者にも利用可能なレベルだ。
 部屋が快適で、朝食付き。スタッフが皆笑顔で迎えてくれて、いろいろ相談にも乗ってくれる。掃除が行き届いている。ここはいい。翌日、「今日も泊まりたい」と言ったら、「インターネット予約ではないので、20ドルですがいいですか?」という。文句はない。高い部屋は、見晴らしのいい道路側で、私の部屋は裏の家に面している。
 ラオカイから戻った夜、ハノイでの快適な滞在を期待してこのホテルにまた来てみたら、「今夜は37ドルです」という。予約がいっぱい入っているから、安くする必要がなく、今夜はひと部屋空いているだけなので、安くできないという。ずっとハノイにいるから安くならないかと交渉をしようとしたら、「明日朝、マネージャーが出社してから、交渉してください」ということだった。
 この夜、旧市街の宿探しをしてわかったのは、ドミトリーはひとり10ドルまで。個室は15〜20ドルくらいが最低線らしいということだ。個室というのは、ドミトリーの一角を薄い壁で仕切っただけのものだったり、ベッドの大きさと部屋の広さがあまり変わらないという部屋だったりして、ゴールデン・スプリングホテルが質の割りに安いとよくわかった。朝食付きだから、けっして高くない。ただし、あまりうまくない。残念な朝飯だ。
 その夜は20ドルの、あまり快適ではない宿に泊まり、翌朝またゴールデン・スプリングホテルに行った。すでに顔を知っているマネージャーがいた。10日ほど泊まるから安くしろという交渉だ。マネージャーは内部資料なのだろうが、予約状況を考えて作成した翌日からの最低料金表を見せて、20ドルでもいい日と30ドル以上とかなり高くなる日があることを示した。私は、安い日だけ泊まって、高い日は別の宿に行くというのは面倒だなあと考えていると、「平均すれば、1日26.5ドルになります。それほど高くないと思いますよ」とマネージャーが言った。うまい商売だ。高い料金が気になっているが、平均にすれば安く見える。
 「25ドルにはなる?」
 「はい、できます」
 「じゃあ、それでお願いします。ここに、ずっといることにしよう」
 25ドルでも、質を考えれば安い。バンコクの安宿や台北のゴキブリ連れ込み宿よりも安い。台湾でもベトナムでも、旅行会社の営業担当のように、宿泊料金を交渉して決めた。物の値段は需要と供給で決まるという経済の原則は、旅でも通用する。前夜泊まった宿に荷物を取りに戻り、「宿を移る」と言うと、「長く泊まるなら、うちは1泊15ドルにするから、このまま泊まらないか」という。1日10ドルの差額は大きいが、バンコクでちょっと仕事をして稼いだので、そのカネを差額に充てられる。ささやかな、ぜいたくを楽しもう。
 こうして、ハノイ散歩の基地ができた。散歩をして気になったことは、あとでスタッフに教えてもらった。そういう毎日が楽しかった。この宿に出会ったのは、幸運だった。