読書 22 ことばの本3
私はもちろん言語学者ではないし、言語マニアでもないし、高野秀行さんのような言語オタクでもないが、辞書はある程度持っている。中国語、韓国語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語といった言語の辞書のほかにも、ちょっと変わった辞書も持っている。『泰漢詞典』というのは、中国広州外国語学院が作ったタイ語・中国語辞典で、タイで発売した版をバンコクで買った。1990年代にラングーンで手に入れたビルマ語・英語辞典は、当時はかなり入手困難な辞典だった。ベトナムでも書店で辞書を買った。このように、ある国に行くと辞書を点検するというヒマつぶしをよくやる。手元の韓国語・日本語辞典も、ソウルで買ったものだ。マレーシアやシンガポールに住む中国系住民が使うことばを集めた”a baba malay dictionary”はペナンで買ったのだが、いまはアマゾンで購入できる。
辞書を買って全身全霊、粉骨砕身、一心不乱の勉学に励むかと言えば、そういうことは一切なく、ときどきパラパラとページをめくり、「ふむふむ、おもしろいぞ」と確認するだけで終わる。
ある特定の言語辞典ではなく、世界のさまざまな言語から、同じような意味の言葉を取り出して比較した本もペラペラと眺めるだけだが、それでもおもしろい。三省堂から『世界のことば100語辞典』のアジア篇とヨーロッパ編の2冊が出ている。アマゾンで調べると、『アジア編』は定価よりもかなり高く、『ヨーロッパ編』が格安なのは、『ヨーロッパ編』がかなり売れたからだろう。
この辞書は、100のことばを選び、さまざまな言語でそのことばに相当する語を集めた単語帳のようなもので、さまざまな言語の文字もわかるのが興味深い。
やはり、食べ物のことばが気になる。『アジア編』の37項は「米、稲」で、28言語で対応する語を紹介しているのだが、簡単な単語帳にはならない。それがおもしろいのだ。
日本語だと、田にあるときは稲、収穫すると米、加熱すると飯になり、飯は食事の意味にもなる。
アラビア語では米も稲もルッズというらしい。イラクではティムマーン、湾岸諸国ではエーシュというそうだ。エジプトではその語はパンの意味になることは体験的に知っているが、他のアラブ諸国では米や稲の意味になることは知らなかった。複雑だ。ラーオ(ラオス)語でもタイ語でも、稲・米・飯すべてカオあるいはカーオだが、これは少数派で、近隣のそのほかのことばでは違う。ベトナム語の例は知らなかった。ルア(稲)、ガーウ(米)、コーム(米を炊いた飯)と、日本と同じだ。カンボジア語も同様。マレー語の例は以前から知っていて、padi(稲、もみ)、beras(米)、nasi(飯)。注に「rasiはコメの飯」とあるが、これはnasiの誤植だろう。素人に誤植を見つけられる不運。
日本語の「飯を食う」は、「米を炊いたものを食べる」という意味と「食事をする」という意味にもなる。それを認めないのは、「ご飯論法」を展開する役人や自民党の政治家たちだ。タイでも、「キン・カーウ(飯)」といえば、「飯を食う」であり、「食事する」という意味にもなる。ところが、インドネシア語で「makan nasi」は「米の飯を食う」という意味で、麺やパンを食べたときは、「makan nasiといは言わないそうだ。ご飯論法はおかしくないのだ。
中国語で「食事をする」は「吃飯」というが、主食が小麦粉製品が多い北部や東北部でも「飯」の語を使うらしいから、米がなくても「飯」を「食事」の意味で使っていいようだ。
世界のさまざまな言語を取り上げると、「英語が、すなわち外国語」と思い込んでいる日本人のはいい刺激となる。『ヨーロッパ編』のスウェーデン語に関するコラム(清水育夫)には、「ごちそうさまでした」とか、「先日はありがとうございました」という表現が紹介されている。英語では言わない表現ということから、「日本独特」と言われがちな表現だ。『アジア編』のペルシャ語に関するコラム(吉枝聡子)では、手土産を「つまらないものですが」といって手渡す習慣があるという。
頭の中を英語一辺倒にしない対策として、こういう本がいい刺激になる。