2085話 続・経年変化 その49

植物 1

 植物にも動物にもまったく関心のない子供だった。野菜に多少なりとも関心を持つようになったのは、台所で料理をする母の脇で、食材がおかずに変わる過程を眺めるようになってからだ。料理の過程がすべて不思議で、食材にも知らないものが多かった。大根、白菜、ニンジン、キュウリなどは自然に覚えたが、知らないものも多かった。棒鱈、タタミイワシ、ベーキングパウダー、みりん、タカノツメなど、正体不明なものがあった。そういう食材を扱う母の脇に立ち、じっと手元を見つめていると、「ほら、じゃま! あっちに行きなさい!!」と叱られるのだが、そんなことではめげず、1歩下がるくらいで台所に立ち、しばらくすれば母の手元をよく見たくて、またすぐ脇に立つ。「男は台所に入るんじゃありません!」と叱られてもめげない。母は、「男のくせに」などと言う人ではなかったが、火や刃物を扱う場所で子供がチョロチョロ動き回られるのが嫌だったのだろうと思う。

 そういうケンイチ少年に手を焼いたのか諦めたのか、あるいはうまい利用法を思いついたからか、すり鉢を押さえているとか、高いところに置いてある皿を取ったりという調理助手をするようになり、「きぬさやの筋を取る」という作業の手順を教わり、ざるいっぱいのきぬさやの筋をとりながら、さやいんげん、きぬさや、インゲン豆という名を覚え、くわしいことは辞書を引いた。芋がらやフキの筋を取ったり、ゼンマイやワラビのあく抜きというのも覚えた。そのうちに、八百屋で売っている野菜のほとんどの名前と姿を覚えた。

 積極的に野菜の勉強をしようと思ったのはコックの見習いになってからだが、1970年代当時、いわゆる「中国野菜」というものはまだほとんど出回っていなかった。青梗菜(チンゲンサイ)がすでにあったかどうか記憶にない。香港でよく食べていた郊外菜というものの正体を知りたかったが、よくわからなかった。この野菜はさっとゆでて、カキ油をかけて食べることが多く、汁そばの上にのせたりもした。調べれば「カイランのこと」という説明があったかもしれないが、カイランも知らなかった。パクチョイ、ターサイ、にんにくの茎、空心菜なども、まだ日本ではなじみがなかった。中華料理店で豆苗(とうみょう。エンドウの若菜)の炒め物を見かけたことはあったが、日本ではまだ「知られざる野菜」だったと思う。テレビの料理番組ではマコモダケをよく見たが、日本のスーパーなどでは見たことがない。

 そういう事情だったので、中国食材事典などを買い集めて読んだのだが、現物を見る機会がほとんどないし、その当時は私が働いていた店でも、普通の日本の野菜しか使っていなかったから、本で読んだ知識はすぐに消えた。

 コックをやめてから十数年後、野菜の勉強をまた始めることになった。東南アジアの食文化の本を書こうと企てたからだ。