892話 イベリア紀行 2016・秋 第17回

 食堂にて 定食とバカリャウ その1


 観光地リスボンも、表通りからちょっと入ると、ほとんど観光客が足を踏み入れない路地がある。そういう場所の食堂は、英語のメニューがある表通りのレストランよりも3割以上安い。表通りのレストランの店頭に掲げた定食メニューには”10.50€”とか、”12.90€”といった料金が書いてある。私が見つけた裏通りの食堂では、”Menu do dia”(きょうの定食)は”7€“と書いてある。
 ここでちょっとカネの話をしておこう。ユーロは€という記号を使うが、多くの読者は見慣れていないだろうから、文章のなかでは「ユーロ」とカタカナ表記する。€という記号を使った表記は、“€15”ではなく、“15€”と表記している。アメリカでは“$15”のように表記するようだが、ヨーロッパでは話をするときのように、ユーロ記号は数字の後ろにつく。今回の旅行時は、1ユーロが118円だった。だから、9ユーロで、約1000円だ。
 ポルトガルやスペインの食事は、サンドイッチと飲み物で、5ユーロ程度。食堂で食事をすれば、料理に飲み物、税金にチップで合計10ユーロ程度が最低ラインというのが目安だろう。質にもよるが、1食10ユーロ以下なら「安い」ということになりそうだ。
さて、私が見つけた食堂は、表に「きょうの定食」が7ユーロだと書いてあるから、どういう内容かと興味があって、入ってみることにした。Sopaスープという文字にもそそられた。ポルトガルのスープは「ものすごくうまい」というわけではないが、体と心があたたまる味わいがある。主菜の料理名は解読できないが、まあ、なんでもいいことにしよう。福袋のように、「何が出てくるかお楽しみ」という定食だ。
 この店は母と娘とふたりできりもりしているようで、調理場にいるのは夫(父親)なのか雇った職人なのかわからない。店の奥で絵を描いている女の子がいる。20代前半くらいに見える娘の子供なのだろうか。この若い娘は英語がえらく達者で、料理の説明を詳しくしてくれた。イギリス企業のOLを辞めて、家業の食堂を手伝うことになったのだろうかなどと、家族の物語を妄想しながら料理を待つ。
 スープは、ポタージュ状のなかに緑の野菜が入っている。ポルトガルのスープといえば、ジャガイモのスープに細切りのちりめんキャベツをたっぷり入れた“Caldo Verde”が有名で、前回の滞在では何度も食べている。目の前のスープはそれとは違う。緑の野菜が入っているのだが、食べてみてもその正体がわからない。娘がテーブル近くを通ったので、ノートを出して、スープの野菜名を書いてもらった。あとで辞書で調べるためだ。
 彼女は”Agrião”と書いた。辞書には「クレソン」とある。なるほど、食べてもわからなかったわけだ。主菜は、Lombo de Porco com Batata Frita。豚と、後ろのフライド・ポテトはわかるが、その前の語Lomboがわからない。調べたら、Lombo de Porcoで「豚ロース」だとわかったが、目の前の料理はその煮込みだ。「ビールで煮る」という料理法を紹介して資料もあるが、この店の詳しい料理法は知らない。聞けば詳しく教えてくれるだろうが、日本で再現する気はないので、詳しい料理法はほとんど興味がない。最後にコーヒーがついて、おしまい。パンがつくから、量は問題なし。味は、まあ、普通の煮込みだから、可もなく不可もなく。卓上に調味料がなく、ジャガイモにかける塩もないのが不満だったが、煮込みが塩辛いので全体的にはちょうどいいが、バランスは欠いている。「ポルトガル料理は塩辛い」という私の仮説が証明されたような気がする。
 翌日も同じ食堂に行った。何が出てくるかわからない定食がおもしろそうだったからだ。
「もう、売り切れ」とおばちゃんが言った。さて、困った。メニューに手を伸ばしたが、いいチャンスだから、あれを注文してみようと思った。「バカリャウを」とおばちゃんに言った。私の発音でも通じた。おばちゃんはにっこり笑って、「バカリャウね」とくり返した。
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 豚肉料理
 
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 塩辛いタラ(バカリャウ)のフライ。