2061話 続・経年変化 その27

読書 3 図書館2

 今でも図書館をほとんど利用していないのだが、高校卒業以降、図書館によく通った時期が何度かある。

 最初は、勁草書房などから続々と出版されていた東南アジア文学を読むために図書館に通ったころだ。1970年代末から80年代のことだ。

 たまたま書店で見つけた東南アジアの翻訳小説を読んだ。井村文化社発行、勁草書房発売のシリーズで、すでに何冊か出版されていた。タイ編が飛び切りおもしろいが、1冊1500円の本を次々に買う金銭的余裕はない。読みたいが、買えない。できるなら自分で買って読みたいのだが、手に入らないとか高額という場合は、しかたなく図書館に通うことになる。

 タイやインドネシアなどの小説を次々に借り、ノートを取りながら精読していった。できることなら、自分のペースで読みたいのだが、図書館の本だとそういうわけにもいかず、傍線を引いたり書き込みをすることもできず、返却期日を守って読んだ。のちに、多少懐具合が良くなって、未読の本は買い、借りて読んだ本もすべて買いなおした。勁草書房、めこん、新宿書房、段々社などのアジア翻訳書は、今でも第一級の資料だ。『タイからの手紙』(上下)、『田舎の教師』、『東北タイの子』、『回想のタイ 回想の生涯』(全3巻)などは、折に触れて何度も読み返している。いつでも取り出せるように、東南アジア文学の棚を作った。こういう本の翻訳援助をトヨタ財団が支えてきたことも、やはり明記しておきたい。アジアの翻訳書は、のちに大同生命国際文化基金が出版するシリーズも加わり、最終的には100冊以上になる。

 私の読書に関して、「小説は読まない」と何度か書いたことがあるが、前回のコラムで野坂昭如開高健の名を挙げたように、小説をまったく読まないわけではない。ここ10年ほどは、吉村昭を好んで読んでいる。小説好きの人と比べたら「小説は読まない」に等しいだろうが、そもそも本をあまり読まない人と比べたら小説もある程度は読んでいる方に入るだろうし、小説好きの人だって、アジアの小説を100冊ほど読んでいる人は、文学研究者以外、そう多くはない。タイ文学研究者だって、インドネシア文学をくまなく読んでいるかどうか疑問だ。

 2度目に図書館によく通ったのは、東南アジアの三輪自転車・自動車の本を書くために、資料を探しているときだった。1990年代のことだ。三輪自転車の資料は自転車図書館(自転車文化センター)では見つからず、諦めた。当時、確か大手町にあった自動車図書館に行ってみたら三輪自動車の資料はいくらでもあり、週に1回は通うようになった。戦前期の自動車雑誌や自動車工業会の内部資料など、古書店では手に入らない資料がほとんどで、資料を片っ端からコピーした。コピー代は高いのはしかたないのだが、会社の仕事でコピーしている人をうらやましげに眺めていた。

 自動車図書館の利用者のなかで、運転免許証を持っていないのはおそらく私ひとりだろうし、三気筒と四気筒エンジンの比較などと言った機械的なことは何も知らなかったが、それでもおもしろい資料はいくらでも出てきた。なかでも特段におもしろかったのは、1950年代の東南アジアデモンストレーション旅行の話だ。工業会の報告書だったと思う。日本の自動車を外国に売り込もうと、現在の国名で言えば、ベトナムカンボジア、タイ、マレーシア、シンガポールインドネシアを日本車で走るという旅行記だ。ベトナムは元フランスの植民地だから、日本よりも道路事情がいいとか、カンボジアからタイに入ると、とたんに道が日本並みにひどくなる。まるで洗濯板だといった記述を覚えている。残念ながら、この資料は単行本にはなっていない。

 のちに、歴史資料として1950年代の日活映画をよく見た。当時の道路事情は東京の中心部はそこそこだが、中心部でも住宅地に入ればひどく狭いし、郊外は未舗装だ。映画の演出上、高級スポーツカーで駆け抜けるというシーンなのだが、風景は田舎道なのだ。1950年代の日本の道路事情の話は、『空旅・船旅・汽車の旅』(阿川弘之)を紹介した1819話でも書いている。

 

 

2060話 続・経年変化 その26

読書 2 図書館 1

 高校生になると、読書事情がかなり変わる。学校の図書室を積極的に利用するようになった。私好みの本は多くはないが、新書を中心に読んだ。岩波新書にはおもしろそうなものはあまりなかったが、中公新書はおもしろいものが多かった。ノンフィクションや海外旅行記が文庫で次々に出る時代ではまだなかった。

 あのころは、高校の図書室の本をもっともよく読んでいる生徒だったと思う。これは単なる想像ではなく、当時図書委員だったので、生徒の利用状況がわかった上での客観的事実だ。進学校の生徒は、読書よりも受験勉強に忙しかったから、世界と日本の名作文学といった本以外読む人は・・・、松本清張アガサ・クリスティー北杜夫そしてSFなどだろう。大学生とつきあいのある人は、倉橋由美子大江健三郎吉本隆明、あるいはサルトルボーボワールなど、私とは無縁の作家たちの本を読んでいたかもしれない。私よりもちょっと年上の、団塊の世代の教養的読書、つまり「こういう本を読んでいると言ったら、教養人、偏差値高い大学の学生だと思われるだろうな」という打算で、自宅の書棚にこれ見よがしに刺していた本の話は、638話(2014-11-16)でした。

 今思い出したこと。図書委員の上級生が、何度目かのブームになっていた中間小説(純文学と大衆小説の中間にある小説という意味)に浸っていて、「野坂昭如はいいぞ、読め」と、会うたびに勧めるので、根負けして、出たばかりの『アメリカひじき・火垂るの墓』(1968)を読み、感動し、以後10年ほどは折に触れ野坂の本を買った。80年代までの小説やエッセイはあらかた読んだ。あの文体はクセになる。五木寛之を読むのはずっと後で、海外旅行記の資料として買った。1960年代末からの10年ほどは、雑誌「話の特集」や「面白半分」の執筆者たちが書いた小説やエッセイを読んでいたのだった。冊数はそれほど多くはないが、これが私の「第1期小説の時代」といってもいい。70年代末に東南アジアの小説をよく読むようになる第2期小説の時代の話は次回に。野坂の本をあらかた読んだ80年代、新たに参入してきたのが開高健で、小説は後回しにしてエッセイを読み漁った。椎名誠も90年代までにあらかた読んだ。

 話は、高校生のころに戻る。

 高校の図書室で、私と同じくらいよく本を借りていたのは、文学にのめり込んでいたヤツだ。日本と世界の文学全集読破をめざしていたようだ。だから図書館でよく会い、雑談をしたのだが、読むジャンルが違うので、本の話で盛り上がったことはない。

 ずっと後のこと、私が銀座の中国料理店で働いていた頃のことだ。仕事を遅番の人たちと代った夕方、店の従業員たちが麻雀に行くというので、ヒマつぶしについていったことがある。私が知らない世界を見てみたかったのだ。そこは新橋の雑居ビルのなかにある雀荘で、タバコの煙とカレーや親子丼を左手に持ち、麻雀をしている男たち。大人の雰囲気というのはこういうものかと納得した。その店で働いていたのが、高校の図書館でよく会ったあの文学少年だった。元文学少年は、音楽青年になっていた。文学を学ぶために大学に進んだものの、音楽をやりたくなって、音楽大学に入り直したのだという。ここで、その生活費を稼いでいるといった。

 それから2年後、私は店をやめて、外国に行くことにした。横浜から出る船に乗ると、船上にヤツがいた。同じ香港行きの船に乗ることになったのだが、その話は長くなるので、気が向けばそれは別の機会に。

 高校生になって図書室を多く利用するようになったのは、神保町に行く費用を貯めるためだ。読みたい本は近所の新刊書店にはないから、神保町に行く。その本が図書室にあれば、それを読んで古本屋巡りの資金に充てる。数多くの本を読みたい。だから神保町に何度も行きたいのだがカネがない。そこで、買い出し資金節約のために、高校の図書館にある本は借りて読んでしまおうと思ったのだ。新書やノンフィクションを次々と借りた。

 高校を卒業して、高校の図書室の代わりに地元の図書館に行くようにはならなかった。借りた本は、すぐ読まないといけないという強迫観念に襲われることが多く、しかも読書体験が増えてくると、読みたい本の幅や深さが増して、図書館の本では間に合わなくなる。読みたい本が図書館にはないということがわかってきた。

 高校を卒業してしまえば、それなりの稼ぎがあり時間もあるので、神保町に買い出しに行くことが増えた。

 

 

2059話 続・経年変化 その25

読書 1 中高校生時代

 読書と中高生時代の話を始める予定だったが、それは後回しにして、きょうの話をする。

 たった今、フィリピンの勉強会から帰宅したところだ。講師は、フィリピン留学経験もあるジャーナリスト大野拓司さん。とりとめのない話だが、フィリピンの可笑しさ・ユニークさはよくわかった。程度の差はあれ、フィリピンには英語ができる人が日本よりはるかに多くいるのだが、それは幸せかという疑問がある。なまじ英語ができるから、海外出稼ぎ者が多く、一族がその出稼ぎ者に頼り、国家も彼ら彼女らからの仕送りを当てにしている。仕送りが豊富にあれば、政府は殖産興業を考えなくてもいい。役人や政治家が何もしなくても、外国からカネが送られてくるのだからたまらない。出稼ぎの問題点をフィリピン人自身が書いた名作が、『ぼくはいつも隠れていた フィリピン人学生不法就労記』(レイ・ベントェーラ、松本剛史訳、草思社、1993)だ。

 こういう話をする予定ではなかったのだが、会場で野村進さんと会ったので、その話をしておきたくなった。「お会いしてから、もうだいぶたちましたね。あれはいつでしたか・・・」という話になった。1980年代末頃かなと思うがはっきりしない。会のあと、積もりに積もった雑談をしたかったのだが、鄙に住む私は帰宅時刻が迫っているので、「これで、失礼します」と別れてしまった。残念。

 帰宅して、この雑語林で野村さんと会ったときのことを書いているはずと調べたら、519話(2013-08-09)にアップしたコラムだとわかった。野村さんに会ったのは1988年の12月だったから、36年ぶりの再会か。1988年に会ったという記憶が正しければ、その時、吉田敏浩さん31歳、野村進さん32歳、前川36歳だ。

このコラムに、フィリピン関連の本も紹介しているから、読書の話からまるで離れるわけではい。長い枕だと思っていただきたい。

 さて、本題に入る。

 過去を振り返ってみても、読書の話は音楽と違い、経年変化はほとんどない。

 私の読書傾向は10代からほとんど変わっていないのだ。幼児期に絵本を読んだことがない。小中高と年齢を重ねても、日本や世界の名作文学には手を出さなかった。理系の本は読まない。天文学も昆虫学も機械工学も無視していた。哲学も宗教書も読んでいない。あのころは、自己啓発本はそれほどなかったかもしれない。偉人伝は数冊読んだ記憶はある。小学生時代に、考古学者シュリーマンチベットに潜り込んだ河口慧海の伝記を読んだ記憶はある。だからと言って、その後探検記などは読んでいないから、ヘディンも読んでいない。中学生になって色気づいたのだと思うが、人間を寄せ付けない大自然の話よりも、市場や路地にいる人たちの話の方がおもしろそうだった。血も肉も踊らない旅行記や滞在記を探して読むようになった。

 読書分野の主要な柱は次のようになる。

 食文化・・・料理ガイドや名店ガイドは、今も昔も読まない。食生活史と異文化の食事事情が多い。

 言語・出版・・・世界の言語のあれこれ。語源や変遷など。

 旅行・外国事情・・・これもガイドではなく、地誌といえばよいか。外国事情で食生活の本を読んだり、言葉の話を読む。

 芸能・・・音楽、映画、演芸など。

 これが10代の読書だった。中学時代から神田神保町に行くようになるが、そのころはカネなどほとんどなく、昼飯代を貯めて行くくらいだから、せいぜい年に数回行くだけだった。神田に行っても、古本屋の店内に入ることは少なく、本選びは店頭のワゴンから安い本を選んだ。いつも図書館の本を借りていたという記憶はない。

 高校からの話は、次回に続く。

 

 

2058話 続・経年変化 その24

音楽 24 クレージーキャッツ 2

 旅行と映画と本のことしか考えていない日々を送っていて、突然クレージーキャッツが頭に入り込んできた。

 「スーダラ節」がラジオから流れていた1961年から、小学生の私の耳にも彼らの歌が流れ込んできた。「五万節」、「ハイそれまでヨ」、「これが男の生きる道」などことごとく耳に入ってきたが、歌の内容を深く意識するようになるのは、20代になってからだ。悪夢の高校生活を終え、毎日を楽しく暮らすようになってからだ。

 例えば、「ホンダラ行進曲」(1963)

 青島幸男の、想像を絶するナンセンス歌詞。人生なんて、「どうせどこでもホンダラダホイホイ」なのだ

 もう1曲。これが最高。「だまって俺について来い」(1964)人を食った萩原哲晶(はぎわら・ひろあき)の作編曲も絶妙。

 「そのうちなんとかなるだろう」が、フリーランスの合言葉だ。組織に守られて生きる道を拒否し、だから組織の犠牲になる生き方も回避して、経済的にも肉体的にもつらくても、精神的には気楽な生き方を選んだ者たちの歌だ。成り上がろうという強い意思のある若者もいただろうが、私は何も考えていなかった。毎日楽しければいいと考えていた。一時コック見習いをやったが、それを生涯の仕事にするといった決意も覚悟も希望もなかった。料理は楽しい。それだけだ。そして、「旅をしたい」といつも考えていた。

 今ではこういう歌詞は書けないだろうが、昔はそれほど不合理ではなかった。高度経済成長の時代だからだ。『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社)から、銀行員の初任給の推移を書き出す。金額の推移に注目してほしい。参考まで書いておくとここ十数年は、数パーセント程度の上昇に過ぎない。

1960年 15000円

1963年 21000円

1965年 25000円

1968年 30500円

1970年 39000円

1971年 45000円

1972年 52000円

1973年 60000円

1974年 74000円

1975年 85000円

 これは初任給の額であって、サラリーマンの平均月給ではないから、月給が数年で倍にはならないだろうが、65年の初任給25000円が10年後には3倍以上の85000円である。現在に置き換えれば、2010年の初任給20万円が、2020年に60万円になっているようなものだ。現実に、そういう時代が、かつてあったのだ。

 今はまだ高くて買えないものも、すぐに買えるようになるという夢があった。今は苦しくても「そのうちなんとかなるだろう」というのが、1960~70年代の日本の気分だったのだ。私は数年かけて貯めたカネを使って、1973年に初めて外国に行った。それが我が生涯最初でたぶん最後の海外旅行になるだろうと覚悟していたのだが、帰国して働き、74年にも75年にも海外旅行をした。海外旅行なんて、一度行けば簡単だとわかった。クレージー・キャッツ、あるいは青島幸男の信奉者ではまったくないが、甘い人生を教えてくれた歌だったとは思う。10年後どころか、2年後何をしているかなんてまったく考えていなかったが、能天気に生きているうちに、いつの間にかなんとかなったのである、あのころは。

 経年変化音楽編はこれにて終了。ちょっと準備をして、次からは読書の経年変化の話をする予定。

 

 

2057話 続・経年変化 その23

音楽 23 クレージーキャッツ 1

 ある歌手やバンドに人生を託すというような若者がいて、そのまま年を重ねていく人がいる。たとえば、私の世代ではビートルズローリングストーンボブ・ディランであり、吉田拓郎中島みゆき矢沢永吉などの強い影響を受け、レコードやCDマもちろん、印刷物などをできるだけ買い集めるマニアになったり、歌詞を熟読玩味して、人生の指針にして生きていくという人たちで、ジャズファンなら、マイルス命とかコルトレーン命という人もいただろう。

 私には、そういうアイドル(偶像)はいない。好きなミュージシャンはもちろんいるが、全作品をコレクションするという気はなく、ましてやその人に自分の人生を重ね合わせて生きる指針、あるいはカテにする気などないから、音楽が宗教の世界に入り込まない。つまり、歌手を崇拝することがない。好きな歌手や演奏者に出会えば、折に触れてCDを買うくらいだ。サンバ歌手クララ・ヌネスのCDをかなり買ったが、コンプリートする意義は感じない。音楽だけでなく、小説も思想も宗教も、自分自身と重ね合わせて生き方を決定することはない。どうやら私には、マニアとかオタクとか、コレクターとか信者とかいった資質という性癖といったものはないようだ。帰依する絶対的な存在を認めていないのだろう。いままで何度もタイに行き、いろいろ調べて文章にしてきたが、だからといってタイマニアでもタイオタクでもない。タイのことなら何でも好きというタイファンでさえない。

 「将来の夢」とは、世間的には「将来なりたい職業」の意味で、昔なら「プロ野球選手」とか「医者」などいくつもの回答があり、今なら「ユーチューバー」が上位に来るだろう。私は「外国に行く」ことが夢で、職業など考えなかった。高校時代でも、将来の夢はなりたい職業のことではなく、ただ、日本を出たいというだけだった。高校を卒業してからも「将来の夢」は変わらず、旅行資金を稼げれば、仕事なんかどうでもよかった。いや、どーでもよかったわけではなく、サラリーマンはやりたくない、組織の一員にはなりたくないといった希望はあった。やりたくないことはいくらでもあったが、やりたいことは「日本を出る」以外には映画と読書くらいしかなかった。そういう好きなことをするための資金稼ぎに、建設作業員、清掃作業員、コック見習いなどをした。

 その後、成り行きでライターになった。ライターでなくても、役者でも画家でも、ラーメン屋でも、組織に属さず働く人は、明日をも知れぬ仕事をしているわけで、今日ケガや病気をすれば、明日からの仕事はないという不安定な職業だ。安定を求めて公務員になる人もいるが、安定よりも自由やおもしろさを選んだ者は、意識的に「あした」を深く考えないようにしているのではないか。もし、病気したらどうしよう。老後はどうなるなどという不安を頭から削除した人たちだ。20代の自分を考えてみると、明日のことを意識的に考えないようにしていたのではなく、ハナから「将来」を深く考えていなかったのだ。考えていないから、不安もなかった。

 人生を教えてくれる歌手やバンドはないと書いたが、自分の生き方を示してくれた歌があることをのちに知った。だれも師として生きてきてはいないが、30代か40代になって、ああそうだなあと気がついたのはクレージー・キャッツの存在だった。

 その話は次回に、ゆっくり。

 

 

2056話 続・経年変化 その22

音楽 22 日本の歌

 考えてみれば、日本の本流の歌にはほとんど興味がなかった。本流というのは大ヒット曲のジャンルで、1970年代までの歌謡曲は好きなものもあるが、それ以後のアイドルポップやユーロビートも、「ザ・ベストテン」で取り上げられたヒット曲には耳が向かなかった。日本の歌でCDを買ったのは、ちあきなおみだ。もとより完全コレクションをする気はないが、発売した歌のほとんどは買った。たまたまラジオで聞いて、「改めて、ちゃんと聞こう」と思いCDを買ったのがザ・ピーナッツ

 そういえば、沖縄音楽は比較的よく聞いている。りんけんバンドネーネーズのコンサートに行ったことがある。沖縄の歌手では、古謝美佐子が別格にいい。

 日本の歌で、コンサートのもようをテレビでやっていたり、ラジオで流れていると、「いいなあ」と聞く耳を向ける歌手やバンドがあり、CDを買うというところまではいかないが、パソコンで聞いたりする。思いつくままに、順不同に書き出す。

浅川マキ・・・ステージを2度見ている。

憂歌団

RCサクセッション

東京スカパラダイス・オーケストラ・・・バンコクで生演奏を聞いた。

熱帯ジャズ楽団

BEGIN・・・テレビ初登場の「イカ天」から見ている。

THE BLUE HEARTS

サンボマスター

EGO-WRAPPIN'

クレージーケンバンドなどなど。

 こうして歌手やバンドの名を挙げていて気がつくのは、日本語の歌詞をはっきり発音して歌っている人たちだということだ。「歌なんて、ノリだよノリ」とばかりに、英語らしき単語を入れ、日本語を英語風に発音すれば「かっこいいだろ!!!」というバンドではない。そういう判断基準が先にあったのではなく、聞いていて「いいな」というバンドを書き出すと、たまたまそういう共通点があるということに気がついたということだ。

 そしてもうひとつ、音楽に多少詳しい人が上のリストを見れば、ブルースやソウルミュージックやラテンの影響を強く受けていることがわかるだろう。BEGINにしても、アマチュア時代はブルースをやっていて、沖縄音楽などやる気はまったくなかったのだ。RCサクセッションやウルフルズの音楽を聞けば、オーティス・レディング時代のソウルが聞こえてくるし、RCはローリング・ストーンズの影響も強く受けていることがわかる。つまり、私が好きなジャンルの音がする日本の歌なのだ。

 今の、若い世代の歌手だと藤原さくらがいい。初めて彼女の歌を聞いたとき、「ノラ・ジョーンズだな」と思ったのだが、彼女は実際ノラ・ジョーンズに心酔しているとのちに知った。私の勘は当たっていたのだ。毎週interFMの彼女の番組HERE COMES THE MOONを聞いている。今、馬頭琴に興味があって、いつか弾き語りをやりたいそうだ。

 朝倉さやは、声と節回しがすばらしいのだが、「これだ!」という曲がない。残念。

 

 

2055話 続・経年変化 その21

音楽 21最新・流行

 決してへそ曲がりからではなく、昔から最新、流行、世の風潮といったものに興味がなかった。本は、小学生時代から自分が読みたい本を選んでいたから、「世界の名作全集」とか「推薦図書」など気にも留めなかった。学校が選んだ図書館の本よりも、神保町で自分で選んだ本を読みたかった。

 音楽も、ラジオで自分の好みの音楽を選択できるようになって、ヒットランキング番組は聞いていない。「これで、4週連続第1位です!!」なんていうことなど、どーでもいい。今も昔も社交的な性格ではないし、サラリーマンにもならなかったから、他人と話題を合わせる必要がない。仕事の上でも、最新情報を仕入れて、今後の企画に生かすなどという必要もない。

 映画も最新にこだわらなかったのは、貧乏だったからという理由もある。いわゆるロードショウ上映に行くカネがあったら、2本立て3本だけの名画座に何度も通った方がいいと思っていた。映像も音響も迫力のある大パノラマ映画には興味がなかったからかもしれない。

 2044話で書いたように、私が好きなブラックミュージックは「クラシック・ソウル」と呼ばれる1960年代あたりの音楽だ。ジャズも、1950~60年代あたりのものが好きだ。サンバは1970年代にはすでに「過去」の音楽になっていたし、ポルトガルのファドも、いまは観光客相手の音楽になっている。今「古臭い」と言われるジャンルの音楽が、まだ現役だっころから好きで、そのままだ。そのことをもってして、「進歩していない」などとは言えない。文明に進歩はあっても、文化に進歩はないのだ。50年前の機械よりも現在の機械の方が優れているということはあるが、50年前の音楽や著作や絵よりも現在のものの方が優れているなどと誰が言えよう。楽器や録音機材が良くなっても、それで「より優れた音楽になった」ということはないのだ。機械仕掛けで正確なリズムが刻めるようになれば、「いい音楽になった」というわけでもない。少なくとも、私にとってはそうだ。

 1960年代までは、音楽情報は武器だった。英語ができて、米軍放送を聞きとる耳があり、アメリカの友人が毎月レコードを送ってくれるというような人は、日本の音楽業界で飯が食えた。1960年代初めのリバプールの若者は、港に行ってアメリカ帰りの船員からレコードを買った。「最新」が、素晴らしい情報だったのだ。南アフリカでも、やはり船員からレコードを買い集める若者がいて、いつもドル札を手にしていたからダラー・ブランドというニックネームがついた。のちに彼はジャズピアニストとして有名になり、本名のアブドゥーラ・イブラヒム(1934年生まれ)を名乗るようになった。

 ある時代までは、最新情報は有効であり人によっては武器であり、新しい音楽の流れを作り出してきたのだが、私のように音楽業界以外の者にとっては、「最新」などどーでもいい。「○○を聞いてないと恥ずかしい。遅れてると言われる」と思っている若者は、好きな音楽が自分の中で確立されていなくて、仲間外れにされないように他人と合わせているだけではないか。

 ウォークマン以後、音楽を持ち出せるようになって、音楽の好みが個別化していき、ラジオやテレビのヒットランキング番組が消えた。ネットで音楽を聞くようになり、高校生が60年代の流行歌を聞くチャンスが生まれた。

 私はヒットチャート番組と、そこに登場するような音楽にもともと興味がないから、その手の番組がテレビから消えてもどーでもいいのだが、ただ、時代の空気を感じる誰でも知っているヒット曲というものがなくなったのは、ちょっと寂しい。