341話 『拙者は食えん!』から、ふたつ目の話

 徳川幕府は、日米修好通商条約の批准書交換のために、1854年に派遣した使節は、その元号にちなんで「万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)」という。旅行ルートは横浜からサンフランシスコ。そのあと、船でパナマ経由アメリ東海岸パナマ運河はまだできていないので、パナマでは鉄道で大西洋側に出て、船を乗り換える。帰路はアフリカ経由の地球一周コースをとる。
 <ニューヨークを出て一七日目、船が最初に立ち寄ったのはアフリカ大陸西海岸に浮かぶポルトガル領サン・ヴィンセント島(現カーボ・ヴェルデ)のポルト・グランデであった。しかしここは島全体が乾ききっており、草木もなければ畑もない。三日間の停泊中、水の補給はもちろん、新鮮な野菜、魚類の入手も叶わず、村垣(淡路守範正)はこういう島に寄港したのは船長の判断ミス以外の何物でもないと判断し、次のような歌を詠んでいる。
 舟よせし(寄せし)かひ(甲斐)やなからん岩清水
   けふ(今日)は水無月の名におふもうし
 旧暦の六月は水無月、これに水の無い島を掛けているのは言うまでもない>
 行きたくて行った訳ではないにしても、1854年に日本人がカーボベルデに行っていたとは驚きだ。この国の名は、公用語ポルトガル語ではCabo Verdeで、日本語での正式名はカーボベルデ。英語ではCape Verdeと書き、発音は「ケープ・バード」に近い音になる。カーボベルデは大小15の島からなり、アフリカ大陸から400キロほど離れている。少年のころから地図を眺めるのが好きだったせいで、こういう孤島を見つけると、ちょっと興味を持って調べてみたくなるタチだ。カーボベルデが独立したのは1975年なので、少年時代に見ていた地図にはどう表記されていたのか記憶にない。「カーボベルデ(ポ)」とでも書いてあったのだろうか。
 私がカーボベルデについて積極的に調べ始めたのは、その音楽に興味を持ったからだ。ポルトガルの元植民地である小国といっても、他のサントメ・プリンシペギニアビサウと比べても、カーボベルデの音楽は豊かだと思う。私の知る限りだから、大して信ぴょう性はないだろうが、CDの発売点数でいえば、カーボベルデが群を抜いて多いのではないかと思う。
 カーボベルデに興味のある者にとっての最近の驚きは、『セネガルカーボベルデを知るための60章』(小川了、明石書店、2010)が出たことだろう。まさか、カーボベルデの本が出るとは思わなかったが、「まあ、セネガルのおまけだろうな」という予想通り、カーボベルデのページはわずかしかない。
 さて、『拙者は食えん!』だ。この本を読み進むと、再びカーボベルデが登場する記述に出会う。使節団の一員で仙台藩士の玉虫佐太夫(たまむし・さたゆう)の航海日記からの引用だ。旅する武士たちは、西洋料理には閉口したが、珍しい果物には警戒心は抱かなかったらしい。何人もの日記にバナナやパイナップルがうまいといった記述がみられる。玉虫の航海記『航米日録』のなかで、カーボベルデの部分には、こう書かれているそうだ。
 <午後から陸上よりパイナープルという云名(という名の)菜物を売り来るものあり。よく日本語を覚え、「分からない、すけべい」という。これかつて雇夫となり、わが国に来りし者という>
 その男は水夫としてポルトガル船に乗り、日本に来たことがあるらしい。長崎あたりで覚えたという日本語が「すけべい」だというのだから、水夫の世界は世界共通なのだろう。
 蛇足近現代史と食ということで、『歴史のかげにグルメあり』(黒岩比佐子、文春新書)を読んだのだが、歴史の記述部分に比べて料理の話が少ないので、ちょっとあてが外れた。手間のかかった本だが、マイナーな人物や事件を取り上げているわけではないので、意外な発見はそれほどなかった。同じような傾向の本では、嵐山光三郎の『文人暴食』「文人悪食」(ともに新潮文庫)のほうが、はるかに読みでがある。質量ともに、たっぷりと堪能できる。タイトルでわかるように、作家の美食のうんちく&食べ歩き話ではない。