1725話 無理を重ねた『中国料理の世界史』 その8

 パッタイ誕生のいきさつ」を疑う 下

 

 前回、数多くの問題点を書き出した。著者の岩間氏は、私が感じた数々の疑問に違和感はまったく抱かなかったのだろうか。「ほんとかい?」と疑問に思って調べ直さなかったのだろうか。

 280ぺージに、岩間氏はこう書いている。

 

 パッタイは、絶対君主制が崩壊したばかりで、まだ階級による文化の違いが色濃く残っていた時代に、国民誰しもが身分に関係なく食べられる料理となり、タイの階級社会に新たな規範を作ったといえる。

 

 岩間氏がいう「国民誰しも」の「国民」とは誰の事だろう。都市に住む中国系住民以外、パッタイを食べる機会があったとは思えない。家庭で作る料理ではないのだ。中国系以外の家庭に、中華鍋がなかった時代だ。現在でも、農民が農村で麺を食べるとすれば、インスタントラーメンくらいだろう。農村では、外食する習慣もほとんどない。「絶対君主制が崩壊した」のは1932年の立憲革命をいうのだろうから、「1930年代のタイの国民誰しもが食べたと言える根拠はなんだ!」 と机をたたきたくなる。1930年代にパッタイという料理を食べた人があれば、それは中国移民がほとんどで、つまりは「タイ国民」でさえないのだ。1940年代でも50年代でも、あるいは60年代でも事情はほとんど変わらない。

 岩間氏はさらに書く。

 

 パッタイ国民食化の過程において、中国の料理がタイ料理に同化されたことによって、反華人感情が忘れ去られていった。

 

 こう述べる根拠を示していない。中国料理がどうタイ料理化していったのか。私はまったく同意できないが、パッタイ以外にその例を示して欲しい。何を例証に、「反華人感情が忘れ去られていった」と証明できるのか?

数年前、バンコクの行きつけの書店アジアブックスで、こんな本を見つけた。

 “Pad Thai”(Thawithong Honhwiwat , SD Books , 2012)

 版元は料理書を多く出している出版社で、この本も広い意味では「お料理本」なのだが、ちょっとしたコラムも載っていて、それがいい。

 10ページの「パッタイ」というコラムにはこうある。パッタイはピブン首相が考えたなどと言う人が多いが、その説を証明する強固な証拠などない。だから、パッタイというのは、中国移民がもたらした焼きそばが「タイで姿を変えたもの」という程度に考えればいいのではないか。意訳すれば、そういうことだ。

 この説に、私は賛成したい。スパゲティはマルコポーロが中国から持ち帰ったものだとか、世間には学問的考察もなしにおもしろおかしく語られることが多い。食べ物だけではないが、日本でも起源の俗説は数多い。研究者も、資料の孫引きを繰り返すだけで、一次資料を探さない。

 というわけで、岩間氏の「パッタイはタイの国民食として創設された」という説は、おおいにマユツバだと言っておこう。

 ピブーンと食文化の話は、すでに拙著『タイ・ベトナム枝葉末節紀行』(めこん、1996)で、”Thailand’s Durable Premier”(Kobkua Suwannathat-Pian、Oxford University Press , 1995)を参考文献にして解説している。

                     

 3月28日に、装幀家の菊池信義さんが亡くなった。私のような売れないライターでも、なんと7冊もの装幀をしていただいている。出版業界をよく知っている人なら、「お前はなんと幸せ者か」と、うらやましがるにちがいない。菊池さんに装幀していただけたのは私の力では無論なく、編集者の努力である。改めて、担当編集者にも感謝したい。

めこんの3冊

バンコクの匂い』(1991)

『まとわりつくタイの音楽』(1994)

『タイ・ベトナム枝葉末節旅行』(1996)

講談社文庫の4冊

『アジアの路上で溜息ひとつ』(1994)

『いくたたびかアジアの街を通りすぎ』(1997)

『アジア・旅の五十音』(1999)

『タイ様式』(2001)

 『いくたびかアジアの街を通り過りすぎ』のカバーデザインの時だったと思うが、編集者から「アジアの写真をできるだけ多く持ってきてくれ」という電話があった。タイトルの文字を「この色」と指定するのではなく、一文字それぞれに、空の青とかゴールデンシャワー(花)の黄色とか、赤はトウガラシとか、自然の色を使いたいというのが菊池さんの要望だったが、17文字の色に使える写真はなく、その企画は消えた。「すごいことを考える人だなあ」と感心すると同時に、忙しいなか、私のようなライターの本にも、手がかかることを考え実行しようと試みる熱意に正直、驚いた。

 ありがとうございました。