1726話 無理を重ねた『中国料理の世界史』 その9

 小舟の麺料理

 

 282ページに「クェイティアオ・ルア」という麺料理の話が出てきて、「それは『ボート・ヌードル(boat noodle)』とも呼ばれるように・・・」と、突然英語が出てくる。タイ人が英語でそう呼ぶわけはないので、あとの説明の出典を調べたらウィキペディアだった。まともな大学教授なら、学生が書いてきたレポートの資料がウィキペディアだったら、「信用できるのかね」と注意するものだ。ウィキペディアをよく見る人ならすぐにわかることだが、項目によっては相当にひどい記事もあるから、安易に引用・信用すると危険なのだ 。学生のレポートレベルではなく、学者の論文ならなおさらだ。

 この学者の資料元はウィキペディアだなと気がついたのは、タイ東北部(イサーン)を「イーサーン」とウィキペディアの表記に従っていることからだ。パッタイの基礎情報も、ウィキペディアのようだ。

 ピブーン首相に関する話を少ししておこう。プレーク・ピブーンソンクラ―ム(1897~1964)は、本名はプレーク・キッタサンカだったが、欽賜名ピブーンソンクラームを姓にした。普通はピブーンと呼ばれる。中国系3世として生まれ、軍人となる。陸軍将校時代にフランスに留学。1938~44年、1948~57年の2度にわたって首相。クーデターで日本に亡命し、神奈川県相模原で客死。

 ピブーンは国家主義的な思想の持ち主で、中国系でありながら反中国政策を推し進めるが、同時にフランスかぶれでもあり、背広に帽子姿をタイ人に勧めるだけでなく、出勤前には妻にキスせよなどと言い出す男だ。

 反中国は、反華人でもあり、国の経済を華人に握られている現状を何とかしたいと思った。そこで、「家庭菜園を作ろう」と言い出した。タイ人(ここでは、非華人をさすことにする)の出費を減らす目的だ。食文化に影響することでは、もっと大きな政策を発表した。公有地での華人の屋台露店などの商売を禁じたのだ。公有地は、タイ人の商売用に開放したのだが、1930年代はまだ水上交通の時代だった。華人は土の上にレンガの家を作り陸上で生活していたが、タイ人は住まいは水上で、移動は小舟だった。そこで、タイ人は路上で商売をするのではなく、小舟で麺を売る小商いを始めたのだ。それが、クイティアオ・ルア、クイティアオ(コメの麺)・ルア(舟)である。これは「小舟で商う麺料理店」あるいは「小舟で商う麺類」という意味で、本来は特定の料理名ではないが、次のナムトックという濃い味の汁を注いだ麺料理クイティアオ・ナムトックが、クイティアオ・ルアの代表的存在で、この麺をクイティアオ・ルアと呼ぶこともある。

 味の特徴は、ウシやブタの生の血がスープに入っていることだ。だから、真っ黒でちょっと生臭い。血を固めて、レバーのように使うことは中国人もやるが、液体のままの血を料理に加えるのは、タイ料理だ。そう考えると、パッタイよりもよほど「タイらしい」と言える。コメが原料の生麺であるカノムチーンも、パッタイよりもよほど「タイらしい」。ところが、パッタイがよく食べられていたとすれば、中国人が作り商う中国人や外国人好みの味だからと考えると、理解が進む。

 想像で書くが、クイティアオ・ルアは、もともとはスープは用意せず、ウシやブタの肉や内臓などを煮込んだ汁をゆでた麺にかけていたように思う。そうすれば、スープを取る手間が省ける。そもそもタイ料理には、「スープを取る」という料理法はない。

 小舟で麺を売る商売は現在まで続いているが、その商売が始まったという1930年代以降、人々はどうやって食べていたのだろうか気になる。箸が使えるタイ人は、まだそれほど多くはなかったと考えるべきか、その当時のバンコクは、華人の方が多かったと言えるかもしれない。農村から出稼ぎ者がどっとやってくるのは、1960年代に入ってからだろう。

 次回で、この話は最終回。