1522話 本の話 第7回

 

 『知の旅は終わらない』(立花隆、文春新書) その 4

 

 立花の著作の中に『思索紀行』(書籍情報社、2004)がある。すでに紹介した1960年のヨーロッパ旅行から、この本がでるちょっと前までの旅の話を集めた本だ。

 この本を資料に文章を書きたいとは思ったものの、我が家で見つけ出す可能性は低いだろうと思った。それでも、「もしかして・・・」と旅行関連の棚を探ったら、あった。昔読んだ本は本棚に収めているが、本棚がいっぱいになってから読んだ本は行方不明になる確率が高い。

 立花隆の文章を初めて読んだのは、ギリシャのアトス半島の紀行文で、かすかな記憶では「月刊プレイボーイ」の特派取材のようなものだったと思っていたのだが、この本で調べると、「FMファン」(共同通信社1984)に載ったものだが、「月刊プレイボーイ」には書いていないという証拠はない。

 自分の旅を振り返って、豊かな知性をもとに、思慮深い文章を綴る最後の世代が立花だと思っている。だから、旅行記について書くと、しばしば『思索紀行』を取り上げてきた。調べてみると、このアジア雑語林だけでも、4回触れている。だから、ここではもう触れない。書きたいことはすでに書いた。

243話(2008-12-24)

279話(2010-09―02)

331話 (2011―06-08)

1060話(2017-12-08)

 『思索紀行』で、1960年の旅に関する部分は紀行文ではなく、この版元がおこなった1996年のインタビューに加筆して、単行本に収めたようだ。その文章が、語り下ろしの新書『知の旅は終わらない』とごく一部が同じ文章なのはいいのだが、なぜか、校正で改変されている。1520話で次の文章を引用した。2020年版だ。

 「僕が買った東京からロンドンへの切符は一人分の往復で25万円しましたから、現在の貨幣価値にすると10倍の250万円くらいになるでしょう」

 2004年版の『思索紀行』には、こうある。

 「ぼくが買った東京からロンドンへの切符は片道で25万円しました。現在の貨幣価値にすると300万円くらいになるでしょう」

 「片道で25万円」という2004年版の正しい情報を、2020年版ではなぜか「往復で25万円」に改変されている。過去の間違いをそのまま載せるということはよくあることだが、新原稿で間違いを書くという理由がわからない。

 旅の話とはまったく関係がないが、『知の旅は終わらない』に、まるでテレビドラマか小説のような話が載っていたので、ちょっと紹介しておく。立花といえば、世間的には田中角栄追及で知られた。田中角栄を退陣させるところまで追い込んだ「文藝春秋」では、続編を企画し、その単行本化も企画されていたのだが、編集局長から「もう手を引け」という指示があり、田中問題追及はすべて消えた。立花がのちに知ったのは、文春幹部にスキャンダルがあり、それを田中派が掴み揺さぶり、文春側が折れて、手を引く結果となったそうだが、そのスキャンダルって、なんだろうね。カネかオンナか・・・。文藝春秋が田中問題の続編を手掛ければ、何千万円もの収入が予想されただろうに、それを反故にしてしまうようなスキャンダルだったということか。

 

1521話 本の話 第6回

 

 『知の旅は終わらない』(立花隆、文春新書) その 3

 

 東大でフランス文学を専攻することとなった立花は、フランス文学に限らず、主に20世紀文学を徹底的に読み漁った。

 「文学を経ないで精神形成をした人は、どうしても物事の見方が浅い。物事の理解が図式的になりがちなんじゃないかな。文学というのは、最初に表に見えたものが、裏返すと違うように見えてきて、もう1回裏返すとまた違って見えてくる世界でしょう」(117ページ)

 そうか、私の見方、見識、人間味が浅いのは、文学を読まずに大人になったかららしい。子供のころから現在まで、東南アジア文学を読んでいた一時期を除けば、文学をほとんど読んでいない。日本や世界の名作文学も、現在のスリラー、ホラー、サスペンス、時代小説も、ことごとく遠ざけている。創刊間もない時代から読んでいた「本の雑誌」を、しばらくすると読まなくなったのは、小説中心の内容だから読み続ける興味を失ったのだ。

 文学青年立花隆は、大学卒業後、文藝春秋の編集者になった。文学しか読んでいない若者に、上司が「ノンフィクションも読みなさい」とアドバイスした。ちょうど、筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」全50巻が刊行を終えたところだったので、第1巻から次々と読み始めた。同じ時代に、『西域探検紀行 全24巻』(白水社)に夢中になっていたのが椎名誠。ある女性がこの全集を全巻持っていると知った椎名誠は、彼女と結婚すればこの全集の半分の権利は自分のものにもなると思い求婚したとエッセイにある。現夫人である。立花隆、1940年生まれ。椎名誠、1944年生まれ。1960年代後半の話である。

 「あっという間にひきこまれて、一気に読み終わり、ノンフィクションというのはこんなに面白いのかと思った。それまで小説ばかり読みふけっていた自分の読書生活は何だったのだろうと深刻な反省を迫られました。文学偏愛者というのは、この世に無数に存在している価値ある書物群の大半をまったく知らない人ではないかと思った」

 「いまにしてみると、文学ばかり読んでいた自分はバカだったと思いますね」

 と、思想が変わる。自慢じゃないが、私は小学生時代からそんなことはわかっていたさ、エヘン。小説を読まないと決めているわけじゃなく、他人に「小説は読むな」と忠告しているわけでもなく、私は「架空」よりも「現実」が好きというだけだけどネ。

 以後、立花は小説を全く読まなくなった。

 サラリーマン生活で知の世界に飢えていた編集者は退職し、東大大学院で哲学を学ぶことにした。当時は、国立大学の授業料は月1000円だから、親のスネをかじらなくても大学で学べたのだ。その時間は、サラリーマン時代には読めなかった本を手当たり次第に読んでいった。こういう本を読んでいたというリストが載っている。

 ギリシャ語でプラトン

 ラテン語トマス・アクィナス

 フランス語でベルグソン

 ドイツ語でヴィトゲンシュタイン

 ヘブライ語旧約聖書

 ほかに、漢文の『荘子集解内篇補正』、そして外国語の授業で、アラビア語ペルシャ語サンスクリットを学んでいた。

 学ぶ喜びを味わう日々は、東大闘争によって授業がなくなり、やむを得ず立花は大学を去り、世間に戻りフリーライターになった。

 

1520話 本の話 第5回

 

『知の旅は終わらない』(立花隆、文春新書) その 2

 

 大学生立花隆のヨーロッパ旅行の話の続きだ。

 宿と食事と移動は現地の好意にすがるというこの方法で、現地滞在費はなんとかなる見通しはついた。高額の旅費は、阿部知二(作家)、朱牟田夏雄(東大教授)、清水幾太郎学習院大学教授)、土門拳(写真家)、中島健蔵(評論家)などが発起人になって寄付を集め、友人との2人分の渡航費100万円はできた。コツコツとアルバイトをして作れる金額ではないから、他人の懐を当てにするしかない。そういう募金活動は、やはり天下の「東大生」というブランドが支えたのだろう。支出のほとんどは交通費だ。1960年2月、ふたりは日本を出発した。約半年の旅になった。この当時の大学探検部や山岳部はもっと高額の資金が必要だったので、企業に協賛や寄付をお願いした。自己資金だけで日本を出た植村直己は、アメリカに到着した時にすでに所持金がわずかだったから、仕事を探すことになったのである。ちなみに、日本からロサンゼルスなでの移民船の運賃は8万円(おそらく最下等)だったそうだ。1964年のことだ。

 「飛行機代がとんでもなく高かった。僕が買った東京からロンドンへの切符は一人分の往復で25万円しましたから、現在の貨幣価値にすると10倍の250万円くらいになるでしょう。そのころの大卒初任給はおそらく1万円程度だったはずです」(54ページ)

 この記述に誤りがあることはすぐに分かった。当時のヨーロッパ方面の航空運賃が50万円くらいだったと知っているからだ。今だと、「東京・パリの往復運賃」などと言っても、出発日や航空会社や経路や航空券の内容(旅行日数など)によって大きく違ってくるのだが、このアジア雑語林1517話で書いたように、昔の航空運賃には「定価」があったのだ。だから、ある程度の航空運賃は暗記している。

 1960年当時、東京からヨーロッパへの航空運賃は、往復46万円だ。「25万円」というのは、ひとりの片道料金だ。

 72ページには「飛行機代が二人で50万円で生活費が50万円、最低でも100万円はなんとかしなくてはならない」とある。「飛行機代が二人で50万円」ということは、片道切符2枚分ということで、これは正しいのだが、説明不足だ。この旅の帰路は、アムスデルダムから貨物船に乗って名古屋に着いた。ひと月の船旅だった。

 「アフリカに足を延ばすというプランにも未練はありましたが、金がなくて動きが取れない。このあたりが潮時かと話し合い、帰りの切符を買いました。貨物船で、切符はかなり安かったと記憶しています」(101ページ)

 1960年2月に出国、10月に帰国した。

 さて、ここから私の苦手な算数の話だ。1960年当時の銀行員の初任給は、大卒で1万5000円、高卒で1万1500円だった(第一勧銀)。現在のメインバンクの初任給は20万円ほどだから、約13倍の上昇ということになる。ヨーロッパ往復46万円の13倍は約600万円だ。ヨーロッパ往復の運賃は、初任給の30か月分の金額ということになる。ここ数年の安い航空券なら7~10万円でヨーロッパ便が買えるから、初任給の半分以下だ。海外旅行の重みがいかに変化したのかよくわかる。こういう算数をしておかないと、1960年ごろの若者が「外国に行きたい」と思った時の絶望感は、わからない。

 「この旅行をしていた半年間は、人生で最大の勉強をしたんだと思いますね。ことさら何かを勉強するという意識は何もなかったけれど、いつのまにか、日々に膨大な情報を吸収していて、わずか半年間の経験でしたが、この旅行から帰ってきたあと、物事がまったく以前と違って見えてきたことを、いまでもはっきりと覚えています」(102ページ)

 

1519話 本の話 第4回

 

 『知の旅は終わらない』(立花隆、文春新書) その 1

 

 語り下ろしのこの新書は、筆者の知の獲得史だが、ここにも1960年代の海外旅行の話が出てくるので、まずはそこから始めよう。

 1959年に東京大学に入学した立花隆は、「当時の若者たちが誰でもそうだったように、僕もまた、とにかく一度でいいから外国へ行きたくてたまらなかった。しかし60年当時、そもそも一般の人は外国へ行けなかったし、パスポートを取ることすらできなかった。取れたとしても外貨を入手できない。飛行機も船もチケットは全部外貨でしか買えなかったから、必然的に日本人は外国へ行けなかったのです」

 まず事実関係の訂正をしておくと、パスポートが取れても外貨を入手できないのではなく、外貨に両替する許可が出ないと、パスポートの申請ができないのだ。パスポートだけ先に入手しておくことはできない。こう書くと、「前に使ったパスポートがあるじゃないか」と思う人がいるだろうが、当時はまだ数次旅券はない。一度使うと帰国時に無効になる一次旅券の時代だ。飛行機代も船賃も外貨で支払わなければいけないというのも、誤り。日本円で支払えるから、あとで書くように航空運賃が日本円で表示されているのだ。

 海外旅行が自由化された1964年以前に外国に行きたいと思っていた若者は、学力優秀であれば奨学金を受けて留学するという手段があった。体力自慢なら、スポーツの国際大会に出場するとか、登山隊に参加するという手段がある。体力と学力の両方があれば、探検隊に参加するという手段もあった。カネとコネがあれば、それを利用して渡航できる。カネもコネもない若者は、移民や船員という道を探す。変化球では、外国人と結婚して日本を出るという手段もある。

 詳しいいきさつは後で書くが、立花は大学2年になる直前の1960年に、日本を出た。

 上に引用した立花の文章を読んでいてふと思いついたのは、東大生の日本脱出というテーマだった。

 1932年生まれの小田実は、東大の大学院在学中の1958年に、フルブライト留学生としてアメリカに渡った。帰国したのは、立花がヨーロッパに旅立った2か月後の1960年4月だった。小田の旅行記『何でも見てやろう』が出版されたのは1961年だから、「外国に行こう」といろいろ画策していた立花は、当然ながらまだその旅行記を手にしていない。

 東京大学文学部の学生玉村豊男は、奨学金を得て1968年にフランスに留学し、70年に帰国した。名作『パリ 旅の雑学ノート』(ダイヤモンド社)が世に出たのは、1977年32歳の時だった。

 奨学金を得て留学するなら、海外旅行の自由化以前でも以後でも、手続き上も経済的にも問題はない。外国に行きたいと切望する東大生なら、留学を考える者は少なくなかっただろうし、卒業後に外交官になるとか商社や新聞社などに就職して外国に行けるチャンスを探す者もいただろうが、立花はほかの手段を選んだ。

 「そういう時代に、僕たちのような貧乏学生がヨーロッパ旅行を計画するなど、ほとんど実現可能性のない、夢のような話だったんです」

 「そこで思いついた計画が、原爆関係の映画を上映しながらヨーロッパの各地を転々とするというものです。現地のいろんな団体と一緒に、核兵器反対のための集会を開いて、そこで日本から持って行った映画を上映する。そのかわりに、滞在中の宿や食事、次の上映地への移動などすべて現地の人たちに面倒をみてもらおうという、ほとんど無銭旅行に近い形の旅でした」

 

1518話 本の話 第3回

 

 『客室乗務員の誕生』(山口誠 岩波新書) その 3

 

 山口の文章を引用する。

 「1965年4月に第1便をヨーロッパに送り出したジャルパックは、1960年代後半を通じて海外旅行商品のトップブランドとして成長し、やがて日本の海外旅行の代名詞にもなった」

 「1960年代後半を通じて」という文章の意味がわからない。これがもし「1960年代後半から」という意味なら、明らかに間違いだ。1964年に海外旅行が自由化されても、「海外旅行へ向かう観光客は実に少なかった」と、5行前に書いているからだ。海外旅行客が少ないのに、ジャルパックが「トップブランドに成長」するわけはない。海外旅行客が一気に増えるのは、ジャンボジェット機が就航して団体旅行が安くなる1970年代後半からだ。

 上に引用した文章のすぐ後に、こういう文章が続く。

 「ジャルパック販売開始から3年後の1968(昭和43)7年7月、日本航空は250人もの客室乗務員を募集した。(中略)全日空をはじめとする国内線の各社も競争して増員したため、桁違いの数の客室乗務員が続々と生まれる時代に突入していった」という文章がある。文意がはっきりしないが、ジャルパックの人気とともに海外旅行者が増えて、客室乗務員の大量採用につながったという意味なら、「それは、どうかなあ」と言っておこう。250人という募集数は正しいのだろうが、それが国際線担当者だという判断は正しいのだろうか。日本航空は国内線と国際線の両方を運航していたのだ。

 「国際線」や「海外旅行部門」と聞くと、華々しい世界だと思われがちだが、1970年代でさえ、海外部門は日陰の身だったのである。近畿日本ツーリストの社員だった作家山本一力は、「だらだら仕事をしていたら、海外旅行部門に飛ばすぞ」と先輩に脅されていた。航空会社でも旅行社でも、同じような話を読んだことがある。だから、「1968年の日本航空が、ジャルパックで大儲けして客室乗務員を大量募集」とは、にわかに信じがたいのだ。

 この『客室乗務員の誕生』を読んでいて、どうもしっくりしないのは、例えばこういう記述だ。第3章に「『アンノン族』は飛行機に乗らない」という項がある。アンノン族は国鉄の「ディカバー・ジャパン」キャンペーンの影響を受けているので、地方のローカル線には乗っても、飛行機には乗らないという主張なのだが、証拠を示してない。ヒマな大学生なら大阪から北海道に鉄道で行ったかもしれないし、沖縄に船で行ったかもしれないが、仕事を持っている人はそれだけの時間的余裕はない。アンノン族時代に、若者向けの国内線航空券割引スカイメイトができているのだから、「アンノン族は飛行機に乗らない」と断言していいのか。

 学者が書く文章だから、元スチュワーデスの思い出話だけではまずいだろう。国際政治や経済事情なども考え併せて論を進めていく必要性は、もちろんわかる。しかし、山口誠教授のほかの本を読んでも、おもしろい物語性がないのだ。読者をひきつける魅力がないのだ。その点、『日本航空一期生』は、元スチュワーデスでのちに作家になり、資料を読んだり、関係者へのインタビューもしていて、ある時代の、日本の航空業界とそこで働いていたスチュワーデスと、初めて飛行機に乗る乗客たちの驚きと喜びが読者に伝わってくるのだ。1516話で書名をあげた2冊、『パン・アメリカン航空物語』と『パン・アメリカン航空と日系二世スチュワーデス』を読むと、アメリカのスチュワーデス黎明期のこともわかる。日本航空にはなかった「エキゾチシズムとスチュワーデス」という観点が、パンナムにはあったこともわかる。

 学者しか読まない専門書ではなく、新書に書くなら、もっと構成を考えた方がよかったというわけだ。「あー、そうなのか!」という、読書の喜びが欲しいのだ。

 私の感想は、批判ではなく期待なのだ。さまざまな視点で書かれた旅行研究書がもっと世に出ればいい。

 

1517話 本の話 第2回

 

 『客室乗務員の誕生』(山口誠 岩波新書) その 2

 

 1954年、日本航空は戦後初の国際定期便を飛ばす。前回話したサンフランシスコ線だ。日本航空にとっては晴れの飛行だが、残念ながら航空券はほとんど売れなかった。その理由を山口はこう書く。

 「そうした不振の理由に、高額な運賃があった。当時の正規運賃は東京・ホノルル間で515.5ドル(18万5436円)、東京・サンフランシスコ間で650ドル(23万4000円)であり、これは同じ路線を飛ぶパンナムと同額だった(朝日1953年11月13日)。新規参入したアジアの航空会社としては強気の価格設定だが・・・・」

 日本航空パンナムの料金が同額なのを「強気」だとしているが、同額であるのは当然なのだ。同額でなければいけないのだと私は推察する。

 IATAという組織がある。日本では「イアタ」と呼んでいる。 International Air Transport Associationの略称で、日本語では国際航空運送協会というらしいが、今の今までこの日本語名称を知らなかった。世界の航空会社の業界団体だ。

 LCCはもちろん、格安航空券などというものも表に出てこなかった時代、航空運賃のほとんどはIATA加盟の航空会社が定める「定価」で販売されていた。東京・サンフランシスコの航空運賃は、誰がどこで、どの航空会社の便を買おうが基本的に同じ料金だったのだ。1960年代から80年代初めあたりの時代に地球をウロウロしていた日本人旅行者は、そういう航空券を「ノーマル・チケット」などと呼んでいた。今でもそういう切符がある。例えば、東京から日航機でホノルル経由サンフランシスコに飛ぶ予定だったが、ホノルルで日航機が故障して飛べなくなったとする。「ちゃんとした切符」を持っている旅客は、他社の便に自由に乗り換えることができる。私には経験がないが、ビジネスクラスがそれだと思う。

 IATA に加盟している航空会社は、航空券を定価で売る義務と権利がある。だから、日本航空パンナム(パン・アメリカン航空)の運賃は同じなのである。日本航空は、1953年にIATAの準会員になり、54年に正会員になっている。だから、客集めのために、日航便を格安で売ることは、できなかったのだ。

 1960年代や70年代に存在した「ノーマル・チケットよりも安い航空券」は、IATA非加盟の弱小航空会社(日本の近くでは、ビルマ航空などがそうだった記憶がある)のものか、航空会社が営業目的で使った航空券の横流し品や団体割引券などだ。「横流し」というのは、航空会社は、テレビや新聞・雑誌などの広告費の支払いを航空券でやっていた。航空会社の実際の負担額は小さいし、マスコミや広告代理店は海外取材などに使える。おそらく、政治家にも流れたと思う。そういう航空券を裏で販売していた者がいたらしい。1年間有効で、無記名だっただろうと思う。

 もう1点、変なことが書いてあるページを取り上げる。91~92ページだ。

 「当時」というのが、具体的にいつなのかがわからない文章だが、山口はこう書く。

 「当時の国際線の客室は商用渡航のビジネス客が多数派であり、海外旅行へ向かう観光客はじつに少なかった。終戦から20年ちかく続いた日本人の海外渡航の実質的な禁止は、東京オリンピックにあわせて1964年に自由化されたものの、日本政府は「1人年1回、持ち出せる外貨は500米ドルまで」と規制を設け、渡航制限を続けていたためだった」

 まず、このアジア雑語林で何度も書いてきたように、東京オリンピックと海外旅行の自由化とは直接の関係はない。そして、1964年に海外旅行が自由化されたが、日本人があまり外国に行かなかったのが、「年1回」という制限や「持ち出せる外貨が500ドル」だったからでもない。航空運賃も外国の物価も高すぎて、ほとんどの日本人は海外旅行などできなかったのだ。山口教授は、1964年に、海外旅行の回数制限や外貨持ち出し制限がまったくなければ、海外旅行をする日本人が急増したはずだと考えているのだろうか。外国に行く日本人が少なかったのは、航空運賃があまりに高かったからだ。

 長くなった。続きは次回に。

 

1516話 本の話 第1回

 

 『客室乗務員の誕生』(山口誠 岩波新書) その1

 

 客室乗務員に関して本腰を入れて調べてみようとしたことはないが、旅行史の研究として、少しは資料を読んだことはある。日本航空全日空日本交通公社の社史のほか、本棚の交通関連書からスチュワーデスが関連する本を探ると、すぐに見つかったのは次のような本だ。

『パン・アメリカン航空物語』(帆足孝治、パンナム・ジャパン史編集委員協力、イカロス出版、2010)

『パン・アメリカン航空と日系二世スチュワーデス』(クリスティン・R・ヤノ、久美薫訳、原書房、2013)

日本航空一期生』(中丸美繪、白水社、2015)

『スチュワーデス 私の2万5020時間』(永島玉枝、読売新聞社、1999)

 なぜここでこういう資料を挙げたかというと、この4冊を読んでいれば、この『客室乗務員の誕生』を読む必要がなかったからだ。しかも、こうした資料の方がおもしろいのだ。

 客室乗務員の話とは直接関係ないが、日本航空設立までのいきさつが『日本航空一期生』に詳しい。この本の著者は日本航空の元スチュワーデスであり、退職後作家になった人なので、ただの素人の思い出話レベルをはるかに超えた内容が詰まっている。

 戦後の日本には、航空会社は外国に任せればいいという主張と、なんとしても日本の会社がやるという2派があり、外国、つまりアメリカの会社に任せればいいというグループの中心人物が白洲次郎だ。国産派には藤山愛一郎や森村勇(のちのTOTOなどの森村グループ)などがいて、これはこれで実に興味深いビジネス戦争である。

 日本航空第一期生の募集は、1951年「エアガール募集」としてわずか8行の広告が新聞に載った。『客室乗務員の誕生』には、「七月二二日、小さな求人広告が(中略)『読売新聞』に掲載されていた」とある。これでは、小さなラーメン屋の店員募集のような広告に思えるが、『日本航空一期生』によれば、「この広告は、昭和二十六年七月二十日から二十二日にわたって、毎日、読売、産経、朝日、東京、日本経済新聞の各紙に掲載された」とあるから、ラーメン屋の店員募集とは規模が違うことがよくわかる。しかも、『日本航空一期生』には、その「エアガール」の待遇もちゃんと書いてある。基本給は3000円で、1時間当たりの飛行手当てが100円。当初の給料は8000円ほどで、訓練を終えた数か月後には2万円ほどの給料になるという話だった。ちなみに、1951年当時の小学校教師の初任給は5000円ほどだ。日本航空よりも早く日本でスチュワーデスを募集したのが、タイの航空会社だった。タイ航空の前身となるPAOS(Pacific Overseas Airline (Siam) Limited タイ太平洋航空)の待遇は月給3万円プラス乗務手当てだった。当時の若い女性にとって、とんでもない高給だったことがよくわかる。

 もうひとつエピソードを添えておくと、1951年の試験飛行に使った機材はフィリピン航空機をチャーターしたもので、教官のフィリピン航空スタッフだった。自前の機材がまだなかったのだ。

 『日本航空一期生』には、数多くの付箋がついている。おもしろいと思った記述がいくらでもあるからだ。日本航空最初の機内食は、1951年の東京・大阪線90分の飛行中で、タマゴとハムのサンドイッチと紅茶だった。スチュワーデス自身が事務所から飛行機まで運んでいたという。トイレの話も興味深く、伊丹空港には清掃業者が入っていなかったので、飛行機内の汚物は、日本航空の社員が肥桶に入れて空港施設まで担いで運んだという。トイレが故障したときのために、おまるを用意していた。

 1954年(『日本航空第一期生』では1955年となっているが、あやまり。中公文庫版では訂正されている)から、日本航空は国際線を飛ばすことになった。東京・サンフランシスコ線週2便だ。こういう思い出話が載っている。「当時は座席が決まっていませんから、搭乗がはじまると、お客さまは後ろの席をご希望で、後ろへ後ろへと走っていかれました」。後ろなら、翼に邪魔されずに外の景色が見えるかららしい。こんなことも書いてある。サンフランシスコの「空港オフィスは、貨物倉庫の片隅にあるカマボコ兵舎風の建物で、やはり冷暖房も水道もトイレもなかった」そうだ。そういえば、日本航空が利用し始めたころの羽田空港待合室は、「吹きさらしの場所で(中略)、トイレもなく、乗客には市内営業所を出るときに済ませるように案内したものである」ということだったそうだ。「吹きさらし場所」の写真は、本書に載っている。海水浴場の屋根付きテラスか。

 この本など航空会社の戦後黎明期の話はこのアジア雑語林820話から4回でたっぷり書いている。パンナムのことも書いているので、飛行機で飛んでください。そのコラムを書いたのは2016年で、それっきり再読していなかったのだが、今回アマゾンで確認すると、2018年に加筆されて中公文庫に入ったと知って、すぐさま発注した。単行本を出したことで、日航出身者たちと連絡が取れるようになり、追加取材が可能になって、大幅な加筆になったという。すこぶるおもしろい本なので、旅行史などに興味のある人にお勧めします。

 獨協大学教授の観光学者が書いた『客室乗務員の誕生』の話が出てこないのは、ほかの本の方がはるかにおもしろいからだが、気になる点は次回に書く。