1752話 行きたくなる博物館はあるか

 名所旧跡に興味がないし、USJなどの施設にも興味がない。では美術館や博物館はどうか。美術に関心がないから、どのような分野であれ、行く気はない。博物館も、東京・京都・奈良・九州の国立博物館は実は美術館で、それが「国宝」であれ、「国宝クラス」であれ、「門外不出」や「秘宝」や「初公開」などのキャッチフレーズがあろうが、美術品を見に行く気はない。

 ネットでおもしろそうな博物館を探したが、私の関心分野と知りたいという要求の深さでいうと、民博(国立民族学博物館)以上か、肩を並べるような博物館はないという結論に達した。南関東の博物館は、行きたいと思えばいつでも行けるが、「わざわざ行く博物館」となると、候補地が見つからない。

 例外的に、唯一「ここは・・・・」と思えるのは、北九州市TOTOミュージアムだ。今まで行かなかったのは遠く、旅費がかかるという理由はあるが、「私の興味を埋めてくれそうもない」という予感があるからだ。TOTOが乃木坂に図書館を持っていた時代に通い、欲しい資料はコピーをしたが、もちろん不十分だ。

 私が知りたいのはしゃがみ式水洗便器の歴史なのだ。水洗便器はイギリスで生まれたという歴史があるので、「イギリス式トイレ」は水洗便器のあるトイレを意味していた時代もある。その当時、ヨーロッパ大陸では、おまるを使っていた。

 イギリスがインド亜大陸を植民地にして、現地の要求にあう「しゃがみ式水洗便器」ができた。そして、日本でも、のちのTOTOがしゃがみ式水洗便器を製造販売を始めアジアに輸出する。戦前期の話だ。腰掛式水洗便器がどのような経緯でしゃがみ式へと姿を変えるのかといった資料を探してTOTO図書館に行ったのだが、その資料はまったく見つからなかった。

 そういう過去があるから、今TOYOミュージアムに行っても、過去の製品展示はあっても、「いかにしてしゃがみ式水洗便器が生まれたのか?」という私の疑問に答える資料がこの博物館にあるとは思えないのだ。実は一度電話で問い合わせたことがあるが、そういう資料はないらしい。

 その昔、ビーチサンダルの歴史や下駄の世界史を知りたくて、広島県福山市の「日本はきもの博物館」(2013年に閉鎖)に行ったのだが、資料はなにもなく、がっかりして帰宅したことがある。愛知県犬山市の「野外民族博物館リトルワールド」に行ったのは何の資料を探していたのか忘れてしまったが、欲しい資料はなかった。資料がないということは、私がゼロから研究を始めなければいけないということで、そのとき研究しようとしていたことをあきらめたのだと思う。

 バルト三国にあるような野外建築博物館があれば、もちろん行く。縄文時代かそれ以前から現在までの日本人の住生活の歴史が見てわかるような博物館があればいいな。建物博物館ではなく、「旧○○家住宅」などとして、江戸時代の住宅が保存されているといった遺産は日本各地にあるが、日本史という流れの中で日本人の生活史をまとめて知りたいのだ。住宅紹介というのは、台所や便所や寝具や、衣食住すべての資料を展示することで、おもしろそうじゃないか。日本の住生活博物館は、まだない。こういう私の関心に応えてくれるもっとも近い存在は、千葉県佐倉の国立歴史博物館(歴博)で、もちろんすでに行っている。

 現在東京国立博物館で、「沖縄復帰50年記念 特別展『琉球』」をやっていて、「もしかしておもしろいかも・・」と思い、ネットで展示品を調べたら、やはり私が嫌いな美術展だ。だから、2100円も出してみる気はない。

 

 

1751話 日本の旅 余話 カメラマン

 昔むかしの能登取材旅行を思い出しながら文章を書いていたら、さまざまな思い出がよみがえり、そのなかに「カメラマン」にまつわる話もいくつかある。

 

 能登ボラ取材とは別の機会に、輪島の朝市取材に行った。撮影前日に打ち合わせたように、夜明け前の暗いうちに宿を出て、市に食材を出すおばあさんの自宅に行き、リヤカーで市に向かう田舎道を同行し、そのおばあちゃんが商売を終えて帰路につく後ろ姿を撮影して、朝市取材を終えた。やっと朝飯が食える。

 朝市会場の道路に面して喫茶店があった。カウンターにコーヒーを持ってきた女性が、「あの~」と声をかけてきた。30をちょっと超えたくらいの年齢に見えた。

 「お客さん、カメラマンですね。そこから、撮影しているのが見えましたから」と店の大きなガラス窓を指さした。たしかに、その店の前をカメラを手にした私が何度も歩いている。

 「ウチの夫も、東京でカメラマンをやっていたんですが、うまくいかなくて・・・、帰ってきてこの店を始めたんです」

 「そうですか」という以外の返事しかできない。「どういう撮影をしていたんですか?」という質問はしないほうがいいと思った。

              ☆

 長野市の旅館だった。宿泊の手続きをして、従業員のおばちゃんが部屋に案内してくれた。お茶を出してくれたあと、「うちの息子も、そういうバッグを持って、東京でカメラマンをやっているんです。取材途中にウチに寄るときも、そういうバッグを下げているんですよ」

 そのときは、やや長い取材だったので、カメラ2台に大きなストロボ、フィルムを50本くらいを、ジュラルミンのケースに入れていた。こういう金属ケースはカメラの保護にはいいが、近くにいる人や物を傷つけることがあるので、注意を要する。とくに、子供の頭を直撃することがある。

 「カメラマンの仕事って、大変でしょ」と、言った。おそらく、その息子と私は同じくらいの年齢だろう。東京で働く息子の苦労を想像しているのだろう。「私、カメラマンじゃなくで、ライターで・・・」などという詳細の説明はいらないので、ただ「はい、そうですね」とだけ答えた。

              ☆

 駅からタクシーに乗って、重要文化財の撮影に行った。山梨だったような気がする。「写っていればいい」という程度の写真でいいということで、そのままタクシーには待っていてもらい、15分ほどで撮影を終えた。駅に戻る車中で、30代をちょっと超えたくらいの運転手が言った。

 「私も、東京で写真の仕事をしていたことがあるんですよ。写真学校を出た後、スタジオに就職しましてね、昼夜働きづめの毎日で・・・。「自分の写真を撮る時間なんかないじゃないか」と思ったんですが、「じゃあ、お前はどんな写真を撮りたいんだ」って考えたら何にもなくて、スタジオを辞めました。そのあと、アルバイトをしばらくやっていたんですが、東京の生活はおもしろくもなくて、こっちに帰ってきてタクシーですよ」

              ☆

 小さな寺の写真を撮っていると、30歳前後くらいの男が近づいてきて、「雑誌かなんかのお仕事ですか」と聞いた。寺の人ではないらしい。文句を言われるかもしれないと警戒しながら「はい」と答えると、「あっちの、裏手の方がちょっといい景色ですよ」と裏手を指さしながら言った。秋の九州だったような気がする。

 「私も、ちょっと前まで、そうやってカメラバッグを肩にして、撮影旅行をしていたんですよ、東京でね。なんとか生きていけるという程度の収入はあったんですが、オヤジが倒れて、この街の写真館のあとを継いだというわけです。こんな田舎町の写真の仕事は、幼稚園や小学校の行事や旅行の写真撮影くらいで、それはそれで楽しい仕事なんですが・・・、あっ、すいません。お仕事の邪魔をして。なんか、ちょっとなつかしくなって・・・」

 私がライターを続けてこられたのは奇跡に近い。

 

1750話 日本の旅 下

 その昔に体験したある旅の話をいつか書きたいと思っていたが、それがどこのことか思い出せないでいたのだが、天下のクラマエ師のツイッター(5月26日)に、能登穴水町の「ぼら待ちやぐら」の記事が出ていて思い出した。そうだ、そこだった。

 ボラの取材でそこに行ったのだ。店でボラ料理の取材をした翌日早朝、この「ぼら待ちやぐら」の写真を撮り、喫茶店でコーヒーとサンドイッチの遅い昼飯を食べた。「その地に城跡があるので、できれば写真を撮っておいてほしい」というの編集部の意向もあった。その前に喫茶店に寄って休憩と情報収集だ。

 「この近くの城跡って、どう行けばいいですか?」と、40代後半くらいの店主に聞くと、「草が生えているだけのところで、なんにもないですよ。だから、見つけにくく・・・」と言ったあと、店でアイスコーヒーを飲んでいる坊主頭の高校生に、「案内してあげて」と言った。親戚の子といった感じだった。

 高校生は、ズズッと最後のアイスコーヒーをすすり、「行きますか」と言って立ち上がった。

 ジリジリと太陽が照りつける夏だった。

 「きょう、日曜日だけど、学校に行ったの?」田舎道を歩きながら、話しかけた。

 「学校じゃないです。試合です。野球の」

 「で?」

 「負けました。予選1回戦で、負けました、ハッハッハ」と、じつに軽やかに笑った。勝負よりも、野球が楽しくってしょうがないという感じだった。

 夏の取材は、いつもどこからかラジオの野球中継が聞こえてきた。高校野球の地方予選の場合もあるし、全国大会の中継ということもあった。沖縄の港に、ドアを開け放った自動車が何台も止まり、ラジオの野球中継を大音量で流していた。野球中継を聞きながら釣りをしているのだ。沖縄の高校が甲子園で戦っているのだろう。どこかの街の商店街のラジオから、野球中継のアナウンスが聞こえてきたこともある。港町の水産加工場から聞こえるラジオだったこともある。夏は、野球に興味のない者は日本人じゃないという雰囲気の季節だが、私は高校野球プロ野球にも興味と知識がない。だから、たとえその地の高校が勝ち進んでいても、野球の話で盛り上がることはなかったが、一応の礼儀として「よかったでね」とか「このまま勝ち進むといいですね」という、心のこもらない対応はした。

 マスコミが商売のために作り出す高校野球の感動の物語にヘキヘキしているし、授業よりも高校の名を売れという私立高校の宣伝隊としての野球部にもうんざりしているのだが、能登で出会った高校野球部部員の「カラカラ」と表現したいほどの明るさは、まぶしかった。まるでNHKのドラマに出てくる明朗快活、裏表のない少年のようだった。

 野球部弱小高に拍手。

 田舎道をしばらく歩いて、高校生が小さな岡を指さした。

 「これです。ね、草しかないでしょ」

 彼の言う通り、草が生い茂っているだけの岡で、石垣など城跡らしき痕跡は見えない。一応、お仕事ということで、草をかき分けちょっと写真を撮った。

 「ありがとう」と礼を言って駅に行こうとしたら、

 「ウチはすぐそこです。ちょっと休んで行ってください」と集落を指さした。

そのなかの1軒に行った。家人はいないようで、高校生はバッグからカギを取り出して引き戸を開け、「どうぞ」といった。私を縁側の椅子に案内し、すべての窓を開け放ち、扇風機を私の脇に置き、向きを確認したあと、冷たい麦茶を持ってきてくれた。

 どんな話をしたのか、まったく覚えていない。その時、私は30歳ちょっと前の年齢で、高校生との会話に苦しんだと思うが、嫌な時間ではなかった。

 穴水の城跡と言うことで、ネット検索すれば、穴水城址が出てくるが、今は城址としてきちんと整備されている。私が見た草ボーボーの岡とはエラク違うので、別の場所だったかと疑いたくなるが、あの夏からもう40年近くたっているのだから、整備して観光地に変身したのだろうか。そのあたりの事情は、調べきれなかった。カラカラと屈託なく笑っていた高校生は、そろそろ50歳に手が届くはずだ。

 クラマエ師の写真から、遠い昔の能登の夏を思い出した。

 

 

1749話 日本の旅から 上

 その年の4月は北海道にいた。取材旅行だ。知床の羅臼(らうす)に行った。ちょっと山に入ると、まだ雪があった。羅臼のあと南下し、尾岱沼(おたいとう)に行った。午後標津(しべつ)に戻り、遅い昼飯をとろうと店を探し、食堂に入った。壁に貼ってあるお品書きの「鍋焼きうどん」に目が止まった。とにかく、寒いのだ。4月でも、歯がガチガチいうほど寒かった。

 テーブルの下から雑誌を取り出して、鍋焼きうどんが来るのを待った。ちょっと前の週刊誌に、食べ物屋に関するガイドがあった。「溜池にできたばかりの・・・」、「経堂の・・・」といった具合に飲食店紹介の文章が続く。その文章を読んでいるのが標津の食堂で、その雑誌作りが東京のことしか考えていないことに、地元北海道の人間でもないのに、少々怒りを感じた。知らない地名の羅列は、人をイライラさせる。

 首都圏に住んでいる私は、普段は何ということもなく読み捨てる文章なのだが、北海道で読むと印象はまったく違う。全国民が溜池が池ではなく赤坂に近い場所の名だと知っているのは当たり前だという傲慢な態度だ。雑誌は、東京でこのように作られている。

 大阪から東京に出てきた芸人が、「桃谷で・・」とか「木津川では・・」という話し方をしていて、大阪出身の先輩芸人から、「そんな地名、東京の人は知らない」と注意されたのを覚えている。大阪ローカルの放送と全国放送の区別がつけられない芸人は、しばらくすると大阪に帰ることになる。さすが島田紳助は、能勢(のせ)を「大阪の北の端の田舎」と説明してから能勢の話をした。それが芸人の腕なのだが、東京の芸人はそんな配慮はしない。「東京の地名を知らないお前が田舎者だ」という態度で、それをウリにしたのがとんねるずだ。三宿だの太子堂だのといった地名を口にして、ギョーカイにあこがれる地方の若者を刺激した。

 標津の食堂での体験から、「首都だけを見て、その国を判断しない」という考え方ができてきたように思う。

 タイの食文化を考え、次にタイの音楽を調べるなかで、首都中心思考から離れよという意識がだんだん強くなってきた。

 バンコクでの飲食体験だけで、「タイ料理は・・・」などと解説しない方がいい。台湾は小さな国だが、台北とは違う食文化が各地にある。チェコプラハにひと月居て文章を書いたが、「チェコの文化は・・・」とか「チェコ人の性格は・・・」などと言った話は多分書いていない。「プラハにひと月」とはいっても、郊外や地方都市と農村もほんの少し見た。それで十分とはもちろん思わないが、首都以外の地に行かないよりは行った方がいいという程度の差はあったと思う。

 だから日本でも、大マスコミの「東京が日本だ」という姿勢は改めるべきだが、まあ無理だな。連続ドラマだって、制作の利便性を考えて、舞台は東京か神奈川に設定されている。

 

 

1748話 日本国内旅行

 日本国内をあまり旅していないのは、日本ではつましく暮らし、そのカネで外国の取材資金資金にしたいという基本方針があったからだが、日本にあまり関心がなかったからともいえる。私は風光明媚・神社仏閣・名所旧跡にはほとんど興味がなく、街をただほっつき、おもしろそうな物事を探すのが好きだ。散歩がおもしろいといえば、日本では大阪以上におもしろい街はないから、足はどうしても外国に向いてしまう。この感覚をわかりやすく言えば、刺激の度合いが日本と外国では大きく違うということだ。

 そんな私でも、「ちょっと見てみたい」と思う風景はある。青森の岩木山の四季は美しそうだが、5分で飽きるかもしれない。春の富山市に立ち、日本海と雪のアルプスの間に立つのもちょっと心が動かされる瞬間だろうが、まあ10分だな。大学時代から沖縄に何度も通い、沖縄の本も書いている友人に、「那覇は、ひと月いて楽しい街かなあ」と聞くと、「それほどおもしろくはないよ」という返事だった。何か調べたいことがあって滞在するならいくら時間があっても足りないが、「ただ、ぐだぐだと居る」という私の旅だと、「ひと月は退屈」と判断したようだ。エメラルドの海だって、1時間で飽きる。沖縄そのものはおもしろいと思うし、のんびり旅をするのはいいと思うが、テレビで見る1時間の「沖縄の旅」は感動的に美しくても、ダイビングも釣りもしない私には、やはり数日で飽きると思う。とはいえ、「もしも移住するなら」という設問なら、「何と言っても沖縄」と言いたい気はするが、多分、すぐ飽きる。大阪は散歩は楽しいが、池田市吹田市だと、東京近郊に住むのとあまり変わらない。

 滞在ではなく、乗り物に乗るという体験なら、もう少し長い時間楽しめそうだ。乗り物といえば唯一心残りなのは青函連絡船だ。高校2年生の夏だった。私は東北地方ひとり旅をしていて、ねぶた祭の日に青森に着いた。青森駅の端は港で青函連絡船が停まっていた。そのままホームを進めば船に乗って北海道に行くことができる。その船賃は何とかなっても。路銀はそれで尽きる。「いつか青函連絡船で北海道に行きたい」とは思っていたが、1988年にその営業を終えた。ソビエト船で津軽海峡を横断したことはあるが、連絡船で縦断することはついになかった。

 連絡船といえば、瀬戸内海に橋がかかり。宇高連絡船も無くなったと思っていたが、たまたま高松にいたときにまだ連絡船があるとわかった。高松から関西に行くには、淡路島ルートや瀬戸大橋ルートといったバスや鉄道を使った移動方法はあるが、ここはやはり船だろうと、高松から岡山の宇野に北上する宇高連絡船に乗った。すでに船で沖縄に行ったし、韓国の釜山と山口県下関を結ぶ関釜フェリーにも乗ったから、船遊びは思い残すことは、大阪などに残っている渡し船くらいか。

 路面電車が好きだ。路面電車が走っている規模の街は、街を歩いていても気分はいい。路面電車がある街に行けば必ず乗ってみたいとは思いつつ、あわただしい取材スケジュールのなかで乗りそびれた電車もある。

 乗りたいと思いつつまだ乗っていないのは・・・、

 札幌市電函館市電、富山軌道線、富山港線高岡軌道線豊橋市内線、京阪電気鉄道大津線、岡山電気鉄道、とさでん交通

 この中で、もっとも乗りたいのは函館市電だな。路面電車だけでなく、「雪の北海道を鉄道で行く」という旅もしたいが、「車窓から雪しか見えないんじゃ、あまりおもしろくないか」とも思う。

 駅巡りをしたくなる駅は、日本にはほとんどない。たとえば、チェコプラハ駅のような味わいのある駅は、日本では破壊されて、経済的要求から駅ビルになっていく。京都駅も大阪駅も、鉄パイプとガラスのつまらない駅になり、味わいなどみじんもない。全国の駅の写真から、駅名看板を消してしまえば、駅マニアでなければ、東京駅や上野駅以外、どこの駅かほとんどわからない。建築家が作りたい鉄パイプとガラスの建造物が、日本人が好きな駅の姿なのだろうか。鉄道愛好家が文句を言わないのはなぜだろう?

 

 

1747話 都道府県

 たまたま古本屋で益田ミリの本を見つけた。安いし、旅行記なので買ってみた。『47都道府県 女ひとり行ってみよう』(幻冬舎文庫、2011)なのだが、「女ひとり」で思い出したのはその昔、旅行人編集室でスタッフと旅行記のあれこれをしゃべっていたら、国会図書館の蔵書検索をすると、「女ひとり」といったタイトルの本が数多いんですよという話を聞いたのを思い出した。今ふたたび、国会図書館の蔵書リストにあたっても、旅行記らしきものに限っても『女ひとりヴェトナムを行く』(平松昌子、講談社、1965)などいくらでも見つかる。女はひとりで旅すると旅行記が出版されやすいということだろう。

 今回のコラムは「女ひとり」ではなく、「都道府県」の方だ。

 私は幸せにも、1980年代に雑誌の取材などで日本各地に行った。観光旅行ではなく、ワンポイントの取材だから、広くは知らないが、少しは日本国内旅行ができた。昔を思い返して、全都道府県に行ったことがあるかどうか考えてみると、1歩も足を踏み入れていないのは徳島県だ。1歩も大地を踏みしめていないが、鉄道で通過したというのは富山県だ。

 記憶がはっきりしないのは鳥取県だ。島根県出雲大社には行った。写真を撮るだけの、簡単な仕事だったから、大社のことはあまり覚えていない。タクシーの運転手が、大社に着く直前に、「ほら、そこが竹内マリアの実家の旅館です」と指さしたのは覚えている。JR大社駅は覚えているが、一畑電車出雲大社前駅を見たかどうかの記憶がない。

 島根に行ったが、飛行機は使っていないと思うから、関西から鳥取を経由して出雲に行ったのかもしれないが、鳥取の記憶がない。もしかして、岡山か広島の取材の後北上したのかもしれないが、そういう記憶もないが、その可能性はある。

 その県で取材をしていながら、1泊もしていないのは、茨城と埼玉は日帰りができるからという理由はあるが、山形は米沢の武家屋敷の取材をして仙台に戻ったから泊まっていない。

 高知の取材はよく覚えている。1月4日だった。機種はYS-11だったような気がするが、確信はまったくない。朝の第1便で羽田を飛び立つと、冬の青空は晴れ渡り、富士山はもちろん戸隠も見え、その向こうに日本海も見えたような気がする。空港から取材先のイセエビ養殖場に行き、午後には羽田行きの飛行機に乗っていた。

 ある年のこと。全日空とタイアップした日本紀行の仕事があった。取材にかかる移動費用の大部分を全日空が負担すれるというもので、航空券引換券のような束をもらった。飛行距離によって、東京・大阪なら2枚。東京・福岡なら3枚という具合になっていて、空港のカウンターで手続きすればカネを払う必要がない。ただし、東京・名古屋間も飛行機を使えばタダだが、鉄道を使うと少ない取材費から出すというこという欠点があり、不便なこともあった。

 九州取材の旅は、福岡から始めて鹿児島で終えた。このまま鹿児島から羽田に飛んでもおもしろくない。鹿児島・羽田も那覇・羽田の同じ引換券3枚で、手元にまだ引換券が残っているから、「よーし、沖縄で遊ぶぞ!」と那覇に飛んだ。もちろん宿と飯は自腹だが、交通費がタダになったのはありがたい。原稿は帰宅してすぐに書ける。

 この時の沖縄を除いて、取材を終えたらすぐに帰宅していた。当時は、日本にそれほど興味がなかったということもあるが、日本での出費を極力減らし、東南アジアでの取材費にしたいと思っていたから、「無駄遣い」はできなかったのだ。そのころは、日本で稼いだカネを持って東南アジアに行き、食文化の研究をしていた。

 

 

1746話 ドイツとロシアの間の国々 その2

 プラハで出会ったジョージアからの留学生は、ソビエト、ロシア、共産主義が嫌いで、会話のあちこちにその感情が現れてくる。ヨーロッパで21世紀最初の戦争と言われる南オセチア紛争(別名ロシア・グルジア戦争)があったから、ロシアは彼にとって現在の問題だった。

 そこで、「もし、もしもだよ、ロシアなんてなかったらこの地域はどうなっていたかなんて考えたことある?」と聞いてみた。彼は、何をバカなことを聞いているのという表情で、「ナチスの占領下だったというだけだ」と言った。どっちにしろ、地獄が待っていた。

 ドイツとロシアの間にある国々は、悲劇の歴史を押し付けられてきた。第二次大戦でドイツに占領されると、占領下の国民はドイツのために戦うことを強制され、ソビエト軍と対峙した。その後、ソビエト軍が優位に立つと、今度はソビエト側に立って戦うことを強制され、ドイツ軍と戦うことになる。その時点ではソビエトは救世主だったが、その後もソビエトは居座り支配を続け、ソビエト連邦の国々を苦しめた。そういう歴史は、チェコポーランドバルト三国の過去と現在を調べていくなかで、少しはわかってきた。その話は、アジア雑語林1293話ほかでちょっと書いた

 ラトビアの首都リーガで、若き元銀行員と外国語教育について話をした。

 ソビエト時代はロシア語は外国語ではなく公用語で教育言語でもあった。ソビエトがら離れたあとは、ラトビア語が公用語になり教育言語になった。外国語はまず英語。その次は、ドイツ語かロシア語のどちらかを選ぶのが普通で、「僕はロシア語を選んだ」と言った。ロシアが好きとかそういうことじゃなくて、「ドイツ人は英語をしゃべるから、ドイツ語は学ばなくてもいい。ロシア人は英語をしゃべらないから、ビジネスのことを考えればロシア語を勉強しておくべきだって考えたんだ」。

 この話を思い出し、ロシアとのビジネスに関わっていた人やロシア語教師たちの今が気になる。ロシア系住民との軋轢はあるのか。ロシア系住民は、元々好かれていたわけじゃないから、今は余計に嫌われているだろうなと思う。ソビエト時代、ラトビアに限った話じゃないが、反ソビエト、反政権と認定された住民は、列車に乗せられてシベリアに送られた。そういう展示は、リーガの鉄道博物館にあった。

 バルト三国のどこの都市に行っても、元KGBソビエトの国家保安委員会)の建物が残っていて、一種の観光名所になっている。私は移転などの都合で足を踏み入れることはなかったが、内部には留置場や拷問室などがあったらしい。

 東ドイツの秘密警察はシュタージといい、小説や映画などで度々取り上げられている。ドイツ映画「善き人のためのソナタ」は今のところ今年見た映画のなかで最高傑作だった。予告編は、これKGB東ドイル支部に勤務していたのが、プーチンだ。

 ソビエトもロシアも関係ないが、ただおもしろかった映画という紹介なのだが、「ヒトラーの贋札」もよかった。

 こういう話とは別に、ウクライナ報道を見ていて、外国のメディアに対してあたりまえに英語で受け答えをしている市民のなんと多いことか。これが日本で、津波地震の取材に来た外国メディアに英語で対応できる現地の役人や政治家がどれだけいるだろうかといったことを考えた。ウクライナには行ったことはないが、私の体験では英語をしゃべる人はこのあたりの国にいくらでもいると想像できる。だから驚いたのは英語力ではなく、かなりしっかりした日本語をしゃべるウクライナ人がけっこういることだ。

 長くなりそうな予感がして、「その2」としたが、今回はこれで終わりにしておく。