895話 イベリア紀行 2016・秋 第20回

 ポルトガルの歴史をちょっと

 ポルトガルもスペインも、過去の栄光の夢をまだ見ている。大航海時代と、植民地時代の夢である。
 植民地獲得にはカネがかる。維持するのにもカネがかかる。そのカネは、植民地で稼ぐ。稼いだカネは、宮殿と教会と船の建造費や武器代金などに消え、また植民地へ強盗に行くという経済サイクルだ。
 植民地ブラジルは、豊かになると宗主国の支配を嫌って、独立した。それを阻止できる力はポルトガルにはない。ポルトガルは、浪費がたたって、植民地に三行半(みくだりはん)を突き付けられても、なにもできない小国になり下がっていた。植民地で得た財産は、産業育成には使われず、王室と教会のために使われ。大土地所有制度のため農業が発展することもなく、ポルトガルは貧国への道を歩んでいた。
 1910年に軍の一部と市民による革命が成功し、共和制になったものの、中産階級の利益中心の政権だったので、労働者階級の支持を失い、政情不安だった。1926年の軍事クーデターで、経済問題の解決を任されたのが、コインブラ大学教授のアントニオ・デ・サラザールだった。彼の手腕で財政赤字が消えたことで支持を得て、1932年に首相に就任した。そこからファシズム政権が始まる。第2次世界大戦が終わってからも、アンゴラモザンビークなどの植民地は手放さないという方針は、西ヨーロッパ諸国から非難を浴びた。反共政権だから東側との外交もなく、産業も教育も遅れ、反政府運動があれば関係者を徹底的に弾圧していった。サラザールは1968年に事故により引退。1974年に軍の一部と民衆が立ち上がり、いままでの体制を壊す無血クーデターを起こした。このクーデターのシンボルはカーネーションであったことから、カーネーション革命と呼ばれた。
 そのサラザール独裁政権下にあって、反政府活動をした者を収容していた刑務所を改装したのが、前回紹介したリスボン大聖堂の隣りの、この博物館だったというわけだ。こんな街中の、多くの観光客が行き交うそれほど大きくない建物が、政治犯用の刑務所だったとは。館内には、独房が再現してあり、写真やビデオなどで、当時の独裁政権時代のようすを伝えている。画像は以下に。
https://www.google.co.jp/search?q=museu+do+aljube-resist%C3%AAncia+e+liberdade&biw=1536&bih=736&site=webhp&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiQofLkkavQAhXJTLwKHSgOCUsQsAQIQg&dpr=1.25
http://www.museudoaljube.pt/expoPerm
 Aljubeという単語がわからないので調べてみると、もともとは洞窟の意味で、教会の獄舎でもあった。反キリスト教の思想や行動をする者を閉じ込めた場所を、のちに政治犯刑務所に転用したらしい。だから、サント・アントニオ教会やリスボン大聖堂のすぐ隣りにあるのだ。教会の牢獄が、政治犯の牢獄に転用されたということらしい。だから、Museu do Aljubeは、「獄舎博物館」、意訳すれば「政治犯収容所博物館」となるのだろう。
 ポルトガル現代史の展示資料を眺めていたら、文書のなかに”3 f”という文字が見えた。これが、ポルトガル現代史の重要なキーワードだということは、私でも知っている。独裁政権を支えた3つのfとは、futebol(サッカー)、fado(ファド)、Fatimaのこと。ファテイマは聖母の巡礼地で、国民の政治意識をそらせた。ファドは、政府に気に入られて体制の宣伝に使われた過去がある。大衆芸能は人気があるだけに、体制に利用されやすい。アマリア・ロドリゲスを批判するグループは、そういう過去を踏まえてのことだ。
 「独裁政権下の権力者たち、政治家や官僚や警察や軍隊の幹部たちは、革命後どうなったの?」
 博物館の若き職員に質問してみた。
 「なにも! 何にも変わらなかったの! あっ、アルゼンチンに逃げたのがいたけど、権力者は、そのまま権力者だったの」
うんざりした顔で、そう言った。

 リスボン編は今回で終わり、次回からポルトの話が始まる。書きたいことが多すぎて、物語はまだスペインには入れない。