ここは日本だ、ハングルがなければ
金浦空港に到着してするべきことは、どこの国でも同じように観光案内所に行くことだ。当時の金浦空港は小さかったと思うから、案内所はすぐにわかった。カウンターではなく、ガラス戸の窓口があるブースで、初老の男がひとり座っていた。
「ソウルでいちばん安い宿を教えてください」
職員はやや困ったような表情だったが、デスクの右の引き出しを開けた。そこにはほとんど何も入っていない。その引き出しからカードを1枚取り出し、私に手渡した。英語で書いてある宿の名刺だった。そこへの行き方をたずねると、小さな市内地図を取り出し、地図を眺めて宿がある通りに印をつけ、空港からのバス番号を書き入てくれた。私が持っている韓国情報は、この名刺とA4ほどの簡単なソウル地図だけだ。
空港からソウル中心部に向かうバスに乗っていて、たまらなく悲しくなったのをはっきりと覚えている。悲しくなった理由は、ソウルが日本の風景だったからだ。ハングルがなければ日本の街と同じで、それは今回の旅がもうすぐ終わるという意味だった。外国旅行は日本と違う景色のなかに身を置くことだと思っていたのに、ソウルはあまりに日本だった。それはソウルの問題ではなく、今回の旅がもうすぐ終わってしまうという感傷に過ぎないのだが。
はっきりとした記憶はないが、その宿はすぐに探し当てた。ガイドブックとインターネットのある時代なら、大都市にある小さな宿に行きつくのはたやすいことなのだろうが、小さな地図だけを頼りに、ヒルトンホテルでもチョソンホテルでもないソウル市民の誰も知らないこの宿にたどり着いたのは奇跡に近いかもしれないと、今は思えるのだが、当時はそれが当たり前だったのだ。案内人がいなければ、なんとかして独力でたどり着くかタクシーを使うしかない。
紹介されたソウルの安宿は、住宅街にある古い木造一戸建て平屋で、門があった。門の脇に離れがあり、そこが受付け事務所だった。幸運にもひと部屋空いていて、3畳間ほどの狭い部屋を得た。すでに若い西洋人旅行者が何人かいた。
その住宅は、現在「韓屋」(ハノク、韓国式建造物)として観光客の注目を集めるような立派な住宅ではなく、日本時代からあったと思われる古ぼけた一般住宅だった。玄関はなく、縁側から出入りしていた。部屋の入口は、1枚扉の障子だった。
『ロンリー・プラネット』や『地球の歩き方』の「韓国編」が出るのは1980年代だから、それ以前は旅行者から情報を集めるか、”International Youth Hostel Handbook”を買うしかない。私もその本は持っていたが、ユースホステルは交通の便利な中心地にはないことが多いので、ソウルではユースホステルの場所を調べることもしなかった。安宿情報は旅行者の記憶とノートのなかにしかない。そういう情報を得ていない旅行者は、勘で安宿探しをするしかない。ローマでもどこででも、「駅裏に安宿がありそうだ」といった勘だけで歩いて探した。到着した空港や駅で、近くにいる旅行者に宿情報を聞いてみることもあれば、「旅行者がいるらしい」という情報を得た地区に行き、旅行者を探したこともある。
1970年代は、地域にもよるが、旅行ガイドブックに頼れない時代だった。ガイドブックを拒否して旅したわけではなく、そもそも使えるガイドブックがなかったのだ。旅行者が情報源だった時代だ。