2112話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その7

のり巻き 1

 1978年のソウルで何を見たのか、あまり記憶がない。本棚の奥底にしまってある当時の旅日記を点検したのだが、具体的なことはあまり書いてない。韓国に来た目的が、キムチを食べることと散歩で、そのころはまだ観察者の目が育っていなかった。コックをやめたばかりの、散歩をするのが楽しいだけの旅行者だった。全身を目にして、街から刺激を受けて、考え、調べるという一連の作業ができるようになるのは、1980年代に入って、東南アジアの食文化調査を本格的にやるようになってからだ。2024年にソウルを再訪して、「ああ、そうだった」と思い出すことがあったが、その話はいずれいつかすることにしよう。

 食文化調査というにはほど遠いが、ソウルで食べたものは日記に書いてなくても、記憶はある程度残っている。46年前の数日間の食事の記憶が残っているということは、のちの食文化観察者の芽が少しはあったということだろう。コックをやっていた時も、多少は中国食文化の資料を読んでいたから、好きな分野ではあったのだ。

 食堂に入る。ハングルは読めない。「クッパ!」と言ってみるが、通じない。今も昔も韓国語を勉強したことはない。ハングルの読み方をちょっとやったのは、ずっと後になってからだ。つまり、1978年当時に知っていた韓国語は、焼き肉屋の料理名だけだったのだ。「クッパ」がだめなら「ビビンパ」はどうかと試してみたら通じたが、店のおばちゃんに「ビビンパップ!」と、語尾のPの発音をちゃんとするように指導を受けた。日記を見ると、ビビンパップは400ウォンだったと書いてある。店によって値段は違うが、現在は10000ウォンくらいだろう。25倍の値上がりである。日本では1980年ごろのラーメンは300円くらいで、現在安いラーメンが800円とすると、2.6倍だ。

 ここまで書いて、韓国ウォンの対米ドル交換レートの歴史を調べて1日が過ぎた。固定相場制から変動制への移行など、日本戦後経済史と共通する部分があって興味深いのだが、ここでは深入りしない。そういう時代背景に興味のある人はほとんどいないだろうが、私は1度の旅を何度も楽しみたいのだ。肉体が移動する旅の前と後に、頭を刺激する考察をしたいのだ。私は、そういうタチの旅行者である。

 韓国語の発音練習をもう一度したという体験が宿でもあった。宿で旅行者と話をしていると、庭におばあちゃんが入ってきた。手にした盆に海苔巻きが盛ってあった。海苔巻き売りだ。ハングルは読めないが、料理や食材の名はある程度知っているから、「あっ、キンパッ!」という語が思わず口から出ると、おばあちゃんは「キンパップ!」と、語尾のPをはっきり発音するんだよとばかりに、何度かお手本を示してくれた。

 その時思ったことと、あとから気がついたことの二つがある。その時感じたのは、台湾なら、こちらが日本人だとわかると積極的に日本語で話しかけてきたのに、ソウルでは年齢的に日本語で教育を受けた世代の人でも、私に日本語で話しかけてくるようなことはほとんどなかった。1945年の終戦時に15歳だったら、1978年はまだ43歳だ。韓国の中高年は日本語で教育を受けた人だが、人前では日本語はしゃべらない空気だった。

 ただ、今になって「もしかして・・・」と思うのは、私のインチキ韓国語が少しは通じたのは、おばちゃんたちが日本人のひどい発音に慣れていたからかもしれないとも思う。

 日本人駐在員が酒場で飲んでいたら、「ここは韓国だ。日本語をしゃべるんじゃない!」と言いつつ、殴りかかってきたという例は珍しくない時代だ。70年代から韓国と関わっている日本人が、1990年代になってからの変化を、「日本人と日本語で話しながら街を歩いていても、からまれたり殴られなくなっただけでも大変な変化ですよ」と言っていた。金大中政権で対日政策が変わり、日本の歌や映画が解禁されるたという時代背景がある。こういう変化があるから、2024年の旅だけを語る気になれないのだ。この旅物語が時空を超えて、行きつ戻りつしているのは、そういう事情があるからだ。

 1978年のキムパップに関して、ずっと後から気がついたことは、次回に続く。