2016話 ソウル2024あるいは韓国との46年 その11

トンカス 1

 1978年夏のソウルでビビンパップを食べた翌日、宿で出会った日本人と、やはり何もわからず食堂に入った。壁に貼りだしてあるのが「お品書き」だということはわかるが、ハングルだからまったく読めない。数字はわかるから、それぞれあまり高くないものを指さして注文した。

 しばらくしてテーブルに運ばれてきたのは鍋焼きうどんのようなものと、フライで、ハムカツのような姿だった。ふたりで分け合って食べてみれば、フライはハムカツではなくて豚肉だった。この料理の正体を考えて、「なんだ、これ?」と思ったことは覚えている。ただそれだけのことだった。

 それから6年後、『ソウルの練習問題』(関川夏央、情報センター出版局、1984)を読んでいたら、こういう文章があった。ソウルで食堂を探すのは大変だったという話のあと、「(やっとのことで)食堂を発見したら、席に着き、壁に貼りだしてある品書きのなかからひとつ選べばいい。よくわからなければ右側からひとつずつトライするのも悪くない」とある。

 関川さんは、当時すでにハングルは読めたから苦労しなかっただろうが、私は何もわからず適当に注文したのだ。その食堂で食べたものがトンカツらしいとわかった。「ツ」という音が韓国語にないので「トンカス」という音になるという説明がこの本にある。ハングルで「ツ」と書いても発音できなくて「ス」になってしまうのではなく、文字も「ス」なのだ。ハングルで「ツ」と発音する文字はない。

 この本が出た1984年当時、ハングルの勉強を少しはしていたので、「ツが苦手」ということは知っていた。そのとき思ったのは、「タイ人と同じだな」ということだ。タイ人の場合は、トンカツは「トンカチュ」になる。克己という名は「かちゅみ」と発音される。ほかの国の人も、日本語の「ツ」は難しい発音なのかもしれないと思った。韓国人も、トンカツが「トンカチュ」になることもあるようだ。

 韓国語の「ツ」問題はトンカスのほかに、スメキリ(爪切り)やバケス(バケツ)、パンス(パンツ)などもある。

 韓国人が苦手な日本語の発音は、韓国語学習者の間では「ざ行」もよく知られている。来日した韓国芸能人がテレビに出て、達者な日本語をしゃべっていても、「ありがとごぜーます」とか「ありがとごじゃいます」となってしまう例を何度も耳にしている。家族は「かじょく」になりがちだ(韓国語で家族は、カジョクだからということもある)。日本語を学ぶ韓国人のハードルのひとつが、「つ」と「ざ行」なのだ。

 大学で講師をしていたころ、受講生に韓国人留学生がいた。彼女は「つ」や「ざ行」のハードルはとっくに超えていて、外国人としゃべっているという感覚はほとんどなかった。その彼女が言う。「韓国人には、金メダルも銀メダルもおんなじなんです」。そうだよなと、すぐにわかる程度に私は韓国語の基礎はすでに知っていた。わかりやすく言うと、韓国語は、濁音が語頭に来ると清音化するという特徴がある。別の言い方をすると、濁音で始まる語を発音しにくいのだ。テレビドラマで有名な「宮廷女官チャングム」は、姓名をきちんと呼べば、ソ・ジャングムなのだが、姓を外して名だけ呼ぶ場合は、ジャングムではなくチャングムになるのだ。だから、金メダルは「きんめだる」でいいのだが、「銀メダル」は濁音が発音できず「きんめだる」になってしまうということだ。

 トンカツがトンカスになったという言語的な話題を意識的に広げたので、次回は食べ物の話に戻る。