284話 ヤシ殻の椀を出ろ その3

 ベネディクト・アンダーソンの『ヤシガラ椀の外へ』を大いに気に入ったのは、私が日ごろ言っていることを、見事に表現してくれているからだ。
 学者や学術書の編集者と会うたびに、つい、次のようなことを言ってしまう。
 近頃読む本が、いっこうにおもしろくない。特に若い研究者が書いたものがいけない。私の読書範囲でいえば、観光人類学や観光社会学といった分野に駄本が目立つ。
 おもしろくない原因は、次の2点だ。
●研究者自身が、研究しているテーマをおもしろがっている気配がない。好きで研究しているのではなく、指導教授のアドバイスにそのまま従っただけであったり、補助金を受けやすいテーマを選んだだけだったり、あるいはすでにちょっと知っている分野を水増ししてでっち上げた論文だから。教授の側に問題があることも少なくない。教授の学問領域が狭すぎる上に、学生がその範囲を出ることを許さないと、教授が掘った針の穴をさらに掘り下げることしかできない。そうしないと論文が合格しないなら、あえてつまらない論文を書くしかない。
●専門用語を多用して、意味不明の理屈をこねまわしたり、西洋の学者が書いた論文の引用に終始している論文が、「格調高く、格好いい」と思い込んでいる。自分の考えは何も書いてないか、書いたとしても、書かない方がかえってよかった稚拙な結論が載っていたりする。
 こういう、お粗末本の例は、何度かこの雑語林でも書いているが、ある程度長い文章は、「アジア雑語林」の第239回と240回をご覧ください。一般書で、部外者には理解できない文章を書くんじゃありませんというのが趣旨だ。それにもう一本加えるなら、『ニッポンの海外旅行』(山口誠、ちくま新書、2010)について、校閲しながら感想を書いたので、長い文章の中から、ごく一部をここで紹介しておこう。

 率直に言えば、この本の中で、学者であることを誇示したいのか、よくわからない理屈をこねている部分は全部要らない。観光や旅行を語る学者の文章をしかたなく読む機会があるが、外国の学者が書いた論文の引用に終始する単なる読書ノートか、読むに堪えない論文もどきということが多い。日本語で書いているのに、「日本語のようなもの」としか思えない駄文だ。ロシア語通訳の米原万理さんは、「日本の文系の学者の発表というのは、ほとんど通訳不能です。何を言っているのかわからないのですから」と書いている(どの本に書いてあったのか失念)が、まさにそのとおり。一般人が読む新書に、「脱文脈化する孤人旅行」(P228)などという表現が適当か。そういう「業界用語」を使わなくても、ちゃんと通じる日本語があるはずだ。業界用語は、業界の中だけで使いましょう。
 この点で最悪な例をあげれば、72ページからの『「歩く」という選択』の部分。
ここはふたつの問題がある。ひとつめは、外国の学者が書いた本の引用について。
フランスのことを学び、論文を書くことについて、鹿島茂は『歴史の風 書物の凪』(小学館文庫)で、次のように書いている。
 「おれには暴力団の知り合いがいるぞ」といきがるのと同じレベルで、「フーコーが、デリダが、ドゥルーズが」と言うためだけにお勉強するんだったら、一九世紀の新聞でも読んでいたほうが、どれだけましかわからない。
 これを観光社会学や観光人類学の論文に置き換えて、前川流にアレンジすれば、こうなる。
 「私は外国語の学術書だって、ガンガン読んでいますよ」と自慢したいだけのために、ブーアスティンや、アーリや、インゴルドを引用するくらいなら、1950年代や60年代の新聞や雑誌の記事を追いかけているほうが、どれだけましかわからない。
つまり、「歩く」ということを論じるために、インゴルトという偉い学者の名を出さないと論じられないのかというのが、最初の疑問。もうひとつの問題は、「歩く」というこの部分そのもの。
 この文章で、西洋人は歩かないことを証明しようとして偉い学者の文章を引用したわけだが、この引用で明らかになるのはイギリスの例であって、西洋全般のことではない。イギリスは治安が大変悪いので、徒歩旅行などしたら、たちまち身ぐるみ剥がされる状況だから、できるだけ馬車を使った。だから、極力徒歩旅行をしなかったのは、イギリス人であって、西洋全般の例ではない。
 これが、例えばドイツなら昔から遍歴する職人や学生がいて、19世紀にはワンダーフォーゲルユースホステル運動が登場してくるので、歩く旅は昔から続いていると考えられる。それなのに、この『「歩く」という選択』という項では、ワーズワース湖水地方といったイギリスのキーワードを、あたかも西洋全域に共通する事例として説明してしまったわけだ。正確な文章を書くよりも、偉い学者の名を出したかったから、この項を書いただけという気がしてくる。
 そういうわけで、二重に余計な文章というわけだ。
 前川と同じことを、アンダーソンはどのように批判しているのかは、次回で。