285話 ヤシ殻の椀を出ろ その4

 ベネディクト・アンダーソンが研究者の文章について書いた部分を、要約してみる。
 学生は、学部時代はそれぞれに個性ある文体で小論文を書いているのだが、大学院に入ると、読者を意識するようになる。同じディシプリン(一応、「研究領域」としておこう)の仲間や、学術雑誌の編集者や仕事を世話してくれそうな人向けに書くようになる。そうなると、「当該ディシプリンに固有の(流行の)専門用語の使用や、ディシプリン内の先行研究の過剰な引用――それも読者を啓発するものではなく、単にディシプリンへの帰属を示す礼儀上の引用だ――、そしてある種の標準化された貧困な言語に最も顕著に表れる」
 つまり、大学院生レベルになると、いわゆる「研究業界の人間です」ということを意識し、私もあなたたちと同じ研究領域の仲間だということを示すために、業界用語を使い、偉大な先輩たちが書いた論文を引用することで、その業界への忠誠心を示すのだ、と言い換えても、けっして間違いではないだろう。無能な学者たちが書いたあのつまらない文章も、先に紹介した「アジア雑語林 239回」の「まなざし」だらけの文章も、やたらに「文脈」という語を使いたがるのも、「シャバの人間とは違い、その筋の人間です」ということを示す文体だということだ。ヤクザが一般人にわからない隠語を使うのも、芸能人や水商売の人間が、24時間いつでも「おはようございます」とあいさつするのも、研究者が一般人には通じない難解な語を好んで使うのと、理由は同じだ。組織への帰属意識の確認だ。そして、自分の論文の箔付け、権威付け、こけおどしだ。
 学者の世界も、流行に弱いという特徴があって、学問的流行語を振り回していると、マスコミ受けするという例が、かなりあるなあ。
 研究者たちが本を出す場合、一般の出版社よりも、学術出版社から出したがると、アンダーソンは書く。「そうすれば本の書評をするのは自分たちと同じ人たちで、何を言うか予測不能なよそ者ではない可能性が高くなるから」だそうだ。「よそ者」というのは、つまり私のような者だ。
 専門用語について、アンダーソンはこう書いている。
 「専門用語が恩恵であり呪縛でもあるのは、その使用が専門家としての印となり専門家同士の意思の疎通を簡便にする一方で、ややもすると専門用語で発想、表現するという牢獄にもなりかねないからだ」。
 学問的であろうとしすぎるせいで、論文が退屈なものになっていることが多い。不必要に高くしている研究領域の壁は壊そうと、彼は言う。「そうすれば、研究者の文体は改善され、退屈さは軽減し、そして『同僚たち』だけではないもっと広い潜在的読者への道が開けることだろう」。
 『梅棹忠夫に挑む』(石毛直道・小山修三編、中央公論新社、2008)に、梅棹の論文は引用や註が極めて少ないという話が出てくる。すでに誰かが書いたことを、わざわざ引用することはないと梅棹が考えたからだが、だから、研究者の間では梅棹の評価は低かったという。同様の話は、梅棹本としては最新刊の『梅棹忠夫 語る』(梅棹忠夫・小山修三、日経プレミアシリーズ、2010)にもでている。この本もまた『ヤシガラ椀の外へ』と同じように、学者の卵が読んで肝に銘じておく基本文献だろう。

 梅棹を初め、民族学博物館の研究者たちの論文がおもしろいのは、業界の規則をきちんと守っていないからか。ヤシ殻椀の外へ出た者は、椀のなかで暮らしている人には迷惑なのだろう。
 ヤシ殻椀の話は、今回で終了。