前回に引き続いて、大学生の探検についてちょっと書く。というのは、前回も取り上げた『京大探検部』(京大探検者の会、新樹社、2006)に、気になる文章があったからだ。
京大探検部OBの永井博記が書いた思い出話のなかに、次のような文章がある。
探検部時代、梅棹忠夫(おそらく、当時顧問)から、「産経アドベンチャープラン」に応募を考えてみないかと提案された。そこで、永井らは「アフガニスタン遠征隊」案で応募したら、審査の結果合格した。遠征隊出発は、どうやら1972年だったらしい。
そうだった。「産経アドベンチャープラン」とかいうのがあった。サンケイ新聞がおもしろそうな冒険旅行の企画を募り、合格すれば高額の資金を提供すると いうようなものだったと記憶するが、詳しいことは覚えていない。その当時、私は外国に行きたいと切に願っている貧しい若者で、できることなら、他人のカネ で優雅に旅行したいとは思っていたが、第三者をおもしろがらせる旅行の企画を立てる自信はなかった。貧乏旅行ではあっても、誰にも束縛されず、誰にも責任 のない、自由きままな旅がしたかったのだ。そういう気ままな旅に資金を出す者はいない。そういうわけで、この「アドベンチャープラン」は私と同世代のもの だが、詳しい企画をまるで知らない。
ちなみに、産業経済新聞社が出す「産経新聞」の題字は、1969年に「サンケイ新聞」に、1988年に「産経新聞」になっている。ここでは引用以外では「サンケイ」としておこう。
この「サンケイ・アドベンチャー・プラン」の全貌は、インターネットではまったくわからない。いつから、いつまでといった実施期間がわからない。合格者 や合格プランのリストがあれば、1970年代初頭の若者の探検旅行の一例がわかり、しかもその若者がのちにどうなったかもついでに調べてみたいと思ったの だが、残念ながらわからない。
全貌はわからないが、合格者がもうひとりわかった。朝日新聞記者の伊藤千尋だ。時代は、1973年。当時のことを、彼は自分のホームページで次のように書いている。
大学4年のとき、朝日新聞を受けて内定の返事をもらっ た。聞いたとたんにもっと別のことをしたくなった。そのころサンケイ新聞が、「アドベンチャー・プラン」を募集していた。世界中どこでもいいから冒険して 来い、採用の分には1000万円出すという。1カ月の下宿代が6000円の時代である。
伊藤は「人はなぜ旅をするのか」をテーマに、東欧のロマ(ジプシー)を追うという企画で応募して、合格する。朝日への就職を蹴り、東大ジプシー探検隊を組織して、日本を出た。
翌年にまた朝日新聞社を受験し、ふたたび合格し、「現在に至る」となる。
そういえば、そういう若者がいたような記憶が、かすかにある。ホームページ「伊藤千尋の奇聞総解」でわかったもうひとつのことは、伊藤が学生時代に 「キューバにサトウキビ刈り」に行っていたことだ。岡林信康も、このときにキューバに出かけているはずだ。裏方の仕事は、藤本敏夫が関わっていた。 1970年前後、36万円の旅費を払って「キューバでサトウキビ刈り」をやるボランティアというのが、海外旅行に関心がある一部の若者のあいだで話題に なっていた。
『京大探検部』を読み終えて、気分転換にまったく別の本を読み始めた。『ぼくたちの七〇年代』(高平哲郎、晶文社、2004)だ。1949年生まれの著者の、「1970年代とぼく」とでもいった自伝だ。これがおもしろい。出版界や放送界、芸能界などの話題が満載だ。
高平は大学生時代から、放送作家や出版社嘱託、イベンターなどをやり、卒業後広告代理店に就職する。1972年のある日の職場で、こんなことがあった。ちょっと、引用する。
ある日、本さんが十枚ほどのレポート用紙を持って、
「高平、これちょっと読んで添削してくれないか」
とぼくらの部屋に来た。部屋にはぼくしかいなかった。
「産経新聞でアドベンチャー・プランていうのを募集しているんだ。その企画書だよ」
同僚のデザイナーで、通称「本さん」の企画書には、「黄金を求めて――シアトルからドーソンまで」とあり、ジャック・ロンドンが金を探しに行ったコースを馬車でたどるという旅行案だった。しかし、この年、合格したのは京大探検部で、本さんの企画は落選した。
本さんは、のちにイラストレーターになり、エッセイや小説も書くようになる本山賢司である。