310話 1970年の世界料理 1/4

 初めてインド料理を食べたのは、インドではない。新宿中村屋のようにカレーを出す西洋料理店でもない。日本最初のインド料理店と言えるのは、1949年創業のナイル(銀座)だろうが、そのナイルで食事したのは、初めてのインド旅行から帰国してまだ間もない頃で、創業者のナイルさん(現経営者の父親)が店にいて、インドの話をいろいろしてもらった。1973年か74年のことだ。この店の料理は、なんだか水っぽく、北インドで食べていた油の多い料理とは大分違う印象で、私には「本場インドの味」という感じはしなかった。
 もしかするとナイルに行く前かもしれないが、銀座のアショカにも行った。たしか、1階にインド政府観光案内所があって、ついでに2階のアショカに立ち寄ったのだと思う。銀座アショカは1969年の開店らしいが、私がそこで食事したのは1972年か73年だと思う。
 記憶を呼び覚ますと、ナイルやアショカ以前にインド料理を食べていた。1970年の大阪だった。こう言えば、中高年は「ああ、そうか」とすぐに気がつくだろう。そう、大阪万国博覧会のインド館で食べたのだ。
 大阪で開催された万博は、1970年3月15日から9月13日までの183日間にわたって開催された、全国的なお祭り騒ぎだった。入場料は、大人800円、青年(15〜22歳)600円、子供400円だったから、私は600円を払って入場したことになる。その時、私は高校3年生で、高校生のアルバイト料は、時給100円ほどだった。だから、時給6時間分だとすれば、現在の物価で5000円ほどになるようだ。
 インド館のレストランは、当時はまだ普通にあったデパートの食堂のように殺風景に広く、テーブルクロスがかかった丸テーブルがいくつもあったような記憶がある。臨時営業の店だから、無駄な装飾はなかったはずだ。
 キーマカレー(ひき肉カレー)を食べたような気がする。皿に広く薄く、ホットケーキのように飯を盛り、その上に平たくキーマカレーが伸ばしてあったような気がする。キーマはいまでも好きではなく、これが最初にして、いまのところ最後のキーマだと思う。なぜキーマを注文したかと言えば、じつに簡単な理由からだ。「キーマ」がどういう料理かも知らず、料理名よりも値段だけを見て決めたのだ。しかし、その値段は覚えていない。
 その味はどうだったか。特にどうだという記憶がないところを見ると、スパイスが強く自己主張することがなかったようで、つまり、日本人好みの味だったのだろう。キーマを注文したせいか、油が多いとか、水っぽくペシャペシャといった記憶もない。だから、どうも、ここの料理はインド料理というよりも、日本人用にアレンジされた「インド料理もどき」と呼んだほうがいいような料理だったという気がする。
 1970年と言えば、あとで詳しく触れるが、外食産業元年といわれる年だが、東京周辺や京阪神はともかく、全国的にみれば、外国料理など多くの日本人にはほとんどなじみがなかった時代だ。カレーライスやスパゲティーナポリタンのように、日本化した「洋食」の仲間のほかに、ラーメン屋の料理か焼き肉屋の料理くらいしか身近になかった時代なのだ。そういう外食事情だから、大阪万博は日本人が知らない国の知らない料理と初めて出会うチャンスだったのである。だからこそ、万博会場の外国料理がどの程度の内容だったかを知りたい。「大阪万博における未知の料理との遭遇」あるいは拡大して、「日本外食史1970年」でもいいのだが、とにかく、万博会場の食事事情が知りたい。
 当時の記憶がかなりあいまいなので、資料で確認したいと思ったが、資料が探せない。インド料理に限らず、大阪万博は世界の料理が日本に初登場した画期的な機会だったことは充分に想像できるので、詳しく知りたいといろいろ資料を探したのだが、まったく見つからない。万博関連の資料は多くあるのだが、会場の食事情について詳しく書いてある資料が見つからない。
 このコラムをカネのとれる文章にするには、本腰を入れて雑誌記事などを調べないといけないのだが、とりあえずの資料として古本屋で入手したのは、『日本万国博覧会 公式ガイド』(発行:日本万国博覧会協会、1970年)だ。見覚えのある本だ。かつて、この本を手に、万博会場に向かった記憶がある。40年ぶりに、また同じ本を手にしたわけだ。
(つづく)
 *1970年の大阪万博のインド館と料理の話は、は万博のサイトで。
インド館 | 万博記念公園