277話 ユースホステルと海外旅行 1&2

 前説
 この「ユースホステルと海外旅行」の話は、第1話が公開されたところで、更新が止まった。だから、第2話から話を続ければいいのだが、それでは第1話を読んでいない人にはわかりにくいだろうと思い、今回は、1話と2話を合わせて公開する。


ユースホステルと海外旅行 その1

 その昔、海外貧乏旅行の情報がほとんどなかった時代、1970年代までのヨーロッパ旅行なら、『国際ユースホステル・ハンドブック』が重要な資料だった。物価が高いヨーロッパの安宿ガイドだから、貧乏旅行者の愛読書だった。
 ユースホステルはドイツで生まれた。そこで、「ドイツ人と旅」をテーマに調べ物をしたくなった。ユースホステルワンダーフォーゲル、遍歴職人、遍歴学者、民族学、地理学などの資料を片っ端から読んでみた。それと並行して、日本ユースホステル協会の歴史資料を読んでいると、橋田壽賀子の名が目に入った。意外ではない。橋田とユースホステルの関係は、すでに知っている。
 2000年8月にNHK・BS2で放送された「BSスペシャル ゆっくり世界旅 真似して真似されて二人旅」を見て知ったのだ。橋田壽賀子ラサール石井のふたりが、なぜかポーランドを旅するという番組で、奇しくも橋田壽賀子の旅の話を聞けた。橋田はなかなかの旅行者だったのだ。
 橋田は大学を出てすぐ松竹に入社したものの、脚本の仕事はなかなか与えられず、1954年に退職してフリーになる。ちょうど53年にテレビ放送が始まったばかりで、彼女はテレビドラマの仕事を得た。仕事の合い間に旅をしたかったのだが、当時はまだ女ひとりを泊める旅館は少なく、しかたなく誰でも宿泊できるユースホステルを利用するようになった。ここなら、女のひとり旅でも、問題なく泊まれる。
 海外旅行が自由化された1年後の1965年、日本ユースホステル協会は、第一回ヨーロッパホステリングを計画した。ホステリングとはユースホステルを利用して旅することだ。海外旅行が自由化されて、やっと観光目的でも渡航できるようになったことで計画された大旅行だった。
 費用を安くするために、飛行機はチャーター便だ。ヨーロッパの7カ国を巡って最終訪問国のポーランドで開催される第25回国際ユースホステル会議に出席するというスケジュールで、45日間の旅。参加者127名のうち、女性は70名。そのひとりが、橋田壽賀子だったというわけだ。このあたりの話は、『歩々清風 金子智一伝』(佐藤嘉尚、平凡社、2003年)にやや詳しくでている。ちなみにこの本は、インドネシア関連書でもある。
 参加費用は、38万円。売り出し中の脚本家にとっても、決して安くない料金だ。38万円は、当時のハワイ10日間のツアー料金に等しいから、それで45日間のヨーロッパ旅行ができると考えれば、たしかに安い。しかし、1960年代なかごろの当時、若いサラリーマンの月給は数万円だから、現在の物価に換算すれば、400万円ほどになるだろう。
橋田のヨーロッパ貧乏旅行の話を詳しく知りたいと思い、橋田の『ひとりが、いちばん』(大和書房、2008年)を読んでみたのだが、興味深い話はなにひとつ出てこなかった。
 橋田の話はこれ以上掘り下げられないので、日本ユースホステル協会の資料で紹介されている、気になるもうひとりの人物について調べてみたくなった。およそユースホステルとはなんの関係もなさそうな人物の名が、資料に載っていたのである。読売新聞大阪本社の記者だった黒田清の最初の著作が、ヨーロッパ貧乏旅行記だったというのだ。黒田といえば、読売時代からすでに有名記者で、退職してフリー記者になってからも、活字やテレビでも活躍したジャーナリストだ。黒田の本はほとんど読んでいると思っていた私には、黒田とユースホステルの旅というのが、私の頭ではどうにも結びつかない異質の存在に思えた。黒田が、かつて貧乏旅行をしたという話を、私はまったく知らなかった。



ユースホステルと海外旅行  その2


 黒田清の著作はかなり読んでいると思っていたが、リュックを背負ってユースホステルを泊まり歩いたという旅行記『向こう三軒ヨーロッパ』(読売新聞社、1965年)の存在は知らなかった。その本は古本屋で簡単には入手できそうもないが、のちに出版された『黒田清選集 Ⅰ 向こう三軒ヨーロッパ』(朋興社、1981年)ならネット古書店で入手できるので、さっそく注文した。
 ネット古書店のリストで、黒田の著作を点検していて、彼の死後出版された『黒田清 記者魂は死なず』(有須和也、河出書房新社、2005年)が気になった。気になったから、ついでに注文しようかと右手のマウスが動きそうになったのだが、しかし「こういう本を、まさか読んでいないわけはないよなあ」という疑念があって、あわてて我が家のマスコミ関連棚の本を探せば、やはりあった。読んでいる。買っただけで、読まずにそのまま置きっ放しにしていたわけではない。付箋がついている。読んだことを思い出したものの、92ページから100ページにかけてのヨーロッパ旅行の記述は、まったく記憶になかった。この伝記を読んでいたころ、頭のなかにあるはずの「旅行」を感知するアンテナが断線していたのか、あるいは記憶回路全体が死んでいたのかはわからないが、まったく知らない話だった。ああ、フケのような、粉々になった麩のような、吹けば飛び散る我が記憶力よ。

 1964年、黒田清33歳。社内の人間関係に悩み、精神的にかなり参っていた。重なるように、急性肝炎になって、2ヶ月間欠勤した。自宅でぶらぶらと療養しつつも、退職も考えていた4月、海外旅行が自由化された。日本のユースホステルの取材をしたことがあったので、外国のユースホステル事情はどうなっているのか知りたくなり、日本ユースホステル協会に500円を送って、英文の『国際ユースホステルハンドブック』を手に入れた。自由化されてわずかひと月後の、5月2日だった。
 これでヨーロッパの格安宿泊ガイドが手に入った。ヨーロッパ地図と、トーマス・クックのヨーロッパ全土の鉄道時刻表(『ヨーロピアン・レイル・タイムテーブル』)も手に入れて、空想旅行の始まりだ。傷ついた心と体が、空想の旅で癒されていった。
 ユースホステルに泊まりながら、普段着のヨーロッパをルポするという企画を、ダメもとで書き上げて上司に提出したら、採用された。東京本社の記者ではなく、しかも外報部ではなく大阪の社会部記者が、「世紀の祭典」東京オリンピックで沸き立っているその時期に日本を離れるという、異例中の異例の海外出張だった。
 9月から12月までの約100日間。リュックを背負って、写真部員とのふたり旅。宿泊は、基本的にユースホステルを利用。旅費は、宿泊費や食費そして交通費などすべての経費として1日あたり10ドルとして、合計1040ドル(37万4400円)が支給された。この当時、海外旅行に持ち出せる外貨は一般人は500ドルだったが、報道関係者は2000ドル以内と優遇されていた。だから、ほかの長期旅行者や金持ち旅行者のように、あらかじめ闇ドルを手に入れておく必要はなかった。いや、真実はわからないが、実は裏で闇両替していたかもしれない。というのは、航空券代を除く旅行の全費用が、1日10ドルというのは、貧乏旅行の予算であって、新聞記者の取材費ではない。移動するだけの最低の予算でしかない。だから、裏予算を用意していたのかもしれないという予測をしたくなるのだ。
 原稿は帰国してから書いた。紙面には、1965年1月から4月まで、「向こう三軒ヨーロッパ」のタイトルで60回にわたって掲載され、同年7月に単行本として発売された。
さて、その本の内容は・・・、次回へ。