韓国も日本も、変わった 1
「うん、韓国は変わったな」とうなづきながら、ソウルの街を歩いていた。
記憶の底を探ると、ある韓国人の発言が浮かび上がってきた。いつ、だれの発言だったという記憶はないが、多分、1990年代の日本のテレビ番組だったような気がする。話していたのは、日本語で教育された世代の韓国人で、職業がジャーナリストだったか経済人だったか、あるいは元官僚だったのかまったく記憶にない。その人物が、こんなことを話していた。
「日本のみなさんは、『韓国はここがまずい。ここがちゃんとしていない』とよく指摘しますが、私は韓国に住んでいる韓国人ですから、政治や社会の欠点は、日本人以上によくわかっていますよ。でも、考えてください。明治維新から近代化していった日本と、朝鮮戦争が終わってからなんとか近代化していった韓国と同列で論じないでください。そもそも出発点が80年ほどの違いがあります。朝鮮戦争が終わって、混乱のなかから我々は懸命に頑張ってきました。一日三食、腹いっぱい食べられる国にしたいと働いてきました。『韓国経済は、ひどいものだ』と言いたいでしょうが、今の韓国を見て、『よくやったじゃないか、頑張ったな』と、温かい目で見てはもらえませんか」
そんな主旨の発言だった。
この40年、日本も変わった。韓国も変わった。しかし、韓国の変化は、日本と同じような近代化の変化だけではない。
「40年以上前と比べれば、そりゃ変わるさ」と言われそうだが、ソウルがバンコクのように高層ビルが林立する近代化した街に変わったというだけではない。政治が変わり、社会が変わり、日本人の韓国感も大きく変わった。今回のソウル滞在中、その変化を眺めたいと思った。
1979年、東京大学大学院生だった四方田犬彦は、日本語教師としてソウル建国大学へ赴いた。その時の体験を書いたのが、『われらが<他者>なる韓国』(PARCO出版、1987。のち平凡社ライブラリー)だった。2000年にも、ソウル中央大学日本研究所で1年を過ごした。そのときの滞在記が、『ソウルの風景』(岩波新書、2001)である。四方田は2度の長期滞在以外でも、しばしば韓国を訪れているから、『大好きな韓国』(ポプラ社、2003)や『われらが<無意識>なる韓国』(作品社、2020)なども併せて読んでいくと、1979年から現在までの韓国の変化がよくわかると同時に、日本人の韓国感の変化もわかる。
四方田が韓国について最初に書いた『われらが<他者>なる韓国』の長い序章の小見出しが「わたしはなぜ韓国を語るのか」であり、帰国後「どうして韓国に行く気になったのですか」という質問をたびたび受けたという話が続く。あの時代、会社や役所の転勤命令でもないのに、自らの意志で韓国に行く者は、その理由を説明する義務があるような雰囲気だった。
四方田と同じように東大の大学院生のアメリカに留学記、『何でも見てやろう』を書いた小田実は、こう書いた。
「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。三年前の秋のことである。理由はしごく簡単であった。わたしはアメリカを見たくなったのである。要するに、ただそれだけのことであった」
アメリカに行くなら、それで充分だ。フランスでもイギリスでも、「行ってみたいから」というだけで、世間は納得したが、1979年に韓国に長期滞在するとなると、世間を納得させる長い弁明のようなものが必要だった。1970年代の韓国に対する日本人のイメージは、デモ、スパイ、死刑、連行、宣言、救援、糾弾、集会、裁判、独裁などだったと黒田勝弘が書いている(『ソウル原体験』)。外国人であっても、何をされるかわからない恐ろしい国が韓国だというイメージがあり、残念ながらそれはまったくのデマではなかった。
言葉でもそうだ。日本で英語やフランス語の学校に通うことに説明など必要ない。今も昔も、そうだ。しかし、当時の日本では、「朝鮮語・韓国語を学ぶ」という事情はまったく違っていたという話は、長くなるので次回に。