938話 イベリア紀行 2016・秋 第63回


 ご近所のよしみで、「ゲルニカ」を


 昼飯が遅かったので、夕方になってもまったく腹が減らない。そこで、夕食前の散歩に出ようかと思った。散歩の行き先をソフィア王妃美術センターに行ってみようと思ったのは、ゲルニカに行ったので、ピカソの「ゲルニカ」をもう一度見てみたいと思ったからだ。我が宿から歩いて10分もしないところにその美術館があるから、ご近所のよしみでもある。しかも、夕方からは入場無料になるから、夕方の散歩にはこれ以上の施設はない。プラド美術館も日によって夕方から無料になるが、ご近所とはいえ、そちらへはタダでも行く気はない。
 私が初めてスペインに来た1975年は、ピカソの名画「ゲルニカ」はまだニューヨークにあった。ピカソは1973年に死んでいるが、スペインの独裁政権が続く限り、「ゲルニカ」はスペインに渡さないというのが、彼の遺志だった。1975年の私が「ゲルニカ」という絵を知っていたのか、そしてこの絵にまつわるさまざまな事柄を知っていたのかどうか記憶がない。スペイン旅行を目的に日本を出たわけではないので、スペインのことはほとんど知らなかったのはたしかだ。このときの旅ではプラド美術館に行った。油絵具でごたごたに厚く塗りまくった宗教画やゴヤの絵を見たが、実につまらなかった。
 1980年、私はニューヨークにいた。「ゲルニカ」はニューヨーク近代美術館で展示していたが、「ゲルニカ」に限らず、美術にはまったく興味がなかった。いや、その時の旅で一回だけ美術館に行った記憶があるのだが、あれはボストン美術館だったか、記憶が定かではない。
 2002年にスペインを再訪し、マドリッドを散歩した。「ゲルニカ」が、ニューヨークからプラド美術館に運ばれていることは知っていたが、行く気はなかった。ただふらふらとマドリッドを散歩していて、アトーチャ駅近くでガラス張りの外付けエレベーターを付け足した古い建物を見つけた。おもしろそうなので、ついふらふらと入ってしまった。看板に“MUSEO”という文字があったが、それが美術館か博物館かのどちらかとわかっていて入場したわけではない。近代的な外観から察して、美術館であったとしても、古色蒼然とした宗教画・肖像画の美術館ではなさそうだという予感があったかもしれない。
 その施設の名を確認もせず入場したのだが、入ればすぐに美術館だとわかった。いくつかの部屋を巡っているうちに、かの「ゲルニカ」に似た絵が置いてあることに気がついた。「ゲルニカ」はプラド美術館で展示しているはずだ。ということは、ここにあるのは「ゲルニカ」の習作かレプリカかもしれない。
 「そんなバカなことがあるか」といわれそうだが、私が目にした「ゲルニカのような絵」は、暗く小さな部屋に置かれていた。壁に架けてあるのではなく、壁に立てかけてあったのだ。人はほとんどいなかった。天下の「ゲルニカ」が、あまり広くない部屋で、そんな粗末な扱いをされているとは到底思えず、だから「ゲルニカに似た絵」だと解釈したのだ。本物はプラド美術館にあるはずだ。
 あの「ゲルニカ」は本物だったのだろうか。「ゲルニカ」は、1981年にニューヨークの近美術館からマドリッドのブエン・レティーロ宮Cason del Buen Retiroに移された。プラド美術館新館のすぐ近くにあり、現在はプラド美術館の研究センターになっている。1981年に、スペインでの最初の公開のときは、防弾ガラスで保護されたという。その後プラド美術館に移されたが、「ゲルニカ」の作風は、プラド美術館の収蔵品の作風とはそぐわないという理由で、1992年に完成したばかりの「ソフィア王妃美術センター」に移された。そういういきさつを知ればなおさら、私が2002年に見た「ゲルニカ」は、正真正銘の本物だったのかという疑問があるのだ。昔のかすかな記憶では、現物の「ゲルニカ」ほどは大きくなかったような気がして、だとすれば縮小レプリカか?
 2016年の「ゲルニカ」は、大きな部屋で展示されていた。ゲルニカの現場や空爆写真を見た後では、こういう絶望の絵にするしかなかったのだろうと想像した。けっして、わけのわからない絵ではない。
http://musey.net/449
 ダリやミロの絵があった。同時に、「ミロやダリ似」の絵画もあり、インパクトのある作風は真似られるのだということもわかった。ミロの絵は、わりと好きだ。
 「ゲルニカ」のほかに、14年前のこの美術館で覚えているのは、アントニ・ガウディーの資料だ。サグラダ・ファミリアを作るときに、あの形のイメージを立体にするために、ロープで吊るして下向けに模型を作ったのだが、その実物があった。今は、バルセロナサグラダ・ファミリアの地下にある。「おお、ここに戻ったのか」という、バルセロナでの再会だった。