1850話 1995年1月17日

 

 そのときも、冬はタイにいた。

 1994年の秋から、いつものように半年ほどの熱帯アジア暮らしをしていて、その日、1995年1月17日の午後は、日本人の友人の勤務先で雑談をしていた。電話が鳴った。彼の自宅からだった。「日本で大地震が起こったとラジオで言っている」と、彼の妻からの電話だった。東海大地震か、東京が壊れたか? 数分後にまた電話があり、「大阪方面で、大地震」というのが続報だった。私の頭では、東海地方ならわかるが、関西では大地震はないだろうと思っていたから、「まあ、それほど大した地震ではないだろう」と思った。ラジオもテレビもない生活をしていたから、その日の情報はそれだけだった。

 翌日の新聞を見て驚いた。大震災だ。近所の顔なじみたちは、私を見るなり「地震は大丈夫か。家族は無事か?」と心配してくれた。神戸周辺に縁者はほとんどいないから、他人事でしかなく、私ののんきな旅はその後も続いた。

 3月末に帰国した。

 姉が、大変だったんだよと言った。1月に旅行に出た姉は、「その日」に、宝塚市に滞在していたのだという。以下は、姉の話。

 早朝、ホテルで地震にあった。何が起こったのかわからないのでロビーに降りた。大地震があったことはわかるが、それが経験したことのない規模の大地震だとしだいにわかってきた。前夜から泊まりのホテル従業員が、「ガスも電気も使えないので、暖かいものを用意できないので、これで・・・」と出してくれたのが、黒砂糖をのせたパンだった。

 身支度をした宿泊客に、ホテル従業員が簡単な説明をしてくれた。大阪方面には自動車でも電車でも行けません。通行不能のようです。姉は新幹線で東京に帰る予定だったが、それは今は無理らしいとわかった。

 「とりあえず、これから、避難所になっている小学校にご案内します。みなさん、まとまって歩いてください」

 今考えれば、前夜から泊まっていたホテル従業員たちも家族や友人と連絡が取れないままになっているはずだが、献身的に宿泊客の面倒をみてくれたという。宝塚ワシントンホテルに感謝をこめて、ホテル名を書いておく。

 小学校へと歩いていると、前を歩いているふたり連れが、「あっ、タクシーが停まっている。伊丹に行ってみようか」と話しているのが聞こえた。ふたりは運転手と話をした。乗り込もうとしている。それしかないか。

「すいません、私もいっしょに」と助手席に乗り込んだ。飛行機が飛んでいるかどうかという情報はないが、とにかく空港に行ってみれば、神戸を抜け出す手段が見つかるかもしれないと思った。その時間、飛行機の運航スケジュールがどうかという以前に、そもそも自動車がほとんど走っていないのだ。タクシーに乗れるだけ、幸運なのだ。自動車で大阪に行けないことは、すでにわかっている。例え大阪に行くことができても、新幹線は走っていない。

 伊丹空港に着いた。当然定期便は運行停止になっているが、臨時便が飛んでいるという。「最後の臨時便です」と係員が言う。すぐさま航空券を買って、羽田空港へ脱出。帰宅。一生分の幸運を使ったような1日だった。あとからわかったのだが、伊丹空港は設備などに損傷はあったものの、飛行は可能で、翌日から臨時便が何便か飛んでいたという。