1641話 ふと思い出す街 その2

 

 最近は、2018年に偶然訪れることになったスペイン、マドリッド郊外のアンカラ・デ・エナーレスを時々思い出す。その旅はアジア雑語林1129話に書いた。週末の1日、マドリッドの安宿がどこも満室で、しかたなく郊外の宿に泊まった。昼前に着き、翌日の朝マドリッドに帰ったから、滞在時間は20時間ほどに過ぎない。

 アンカラ・デ・エナーレスとは、「エナーレス川の城」という意味で、街の一部が世界遺産に指定されているということを、いまこの文章を書くための予習で初めて知った。『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテスの出身地ということ以外、この街のことは何も知らなかった。どーということのない街で、印象的な出来事があったわけではないのだが、なぜか週末の浮かれた街のことが帰国後もいろいろ浮かんでくる。その日が祝日だったのだろうか。

 中古のCD&DVD屋に行って、「スペイン映画で、英語の字幕がついているDVDを買いたいのですが」と相談すると、「今、店員は私ひとりで、棚のDVDをチェックする時間がないから、夕方、もうひとりのスタッフが来たら、お手伝いできます」と、女子大生のアルバイトのような店員が言った。夕方までまだ2時間ほどある。ヒマつぶしに、早めの夕食を食べようと思ったのだが、食堂はどこも小さな宴会をやっていて大混雑している。孤独な旅行者は入っていけない。しかたなく路地裏をうろつき、ピザ屋を見つけた。日本なら、さびれたショッピングセンターにありそうな安直な作りの店で、椅子もテーブルもパイプで出てきている。帰宅途中の中高校生がたむろしているのがお似合いの店なのだが、客はいなかった。うまくもないピザをコーラで流し込んでいると、客が入ってきた。1950年代のハリウッド女優のようなセットした金髪の30代の女が、10歳ほどの黒人の少年を連れている。ふたりも売れ残ったピザとコーラの食事を始めたのだが、女は少年にあまりうまくない英語で話しかけている。女が何を話しているのか聞き取れないが、母が子供にやさしく語りかけているというのではなく、かといって絶えずしかっているわけでもない。ぶつぶつと文句を言っているとも受け取れる。あまり感情がこもらない声で話し、少年は「yes」も「no」も言わない。黙ったまま、ゆっくりピザにかぶりついているのだが、けっして無視しているという態度ではない。ヒマつぶしに、ふたりの関係を想像してみたのだが、「これが正解」と思える結論は出なかった。

 中古のCD&DVD屋に戻り、先ほどの彼女が何枚かのDVDを選んでくれていた。2枚買ったが、あわい文芸作品のようで、残念ながらあまりおもしろくなかった。

 つい先日、WOWOWでスペイン映画「ボリベール(帰郷)」(2006)を見た。韓国映画の「最後まで行け」に似た味わいの映画で、実におもしろかった。映画を見ていて、スペインの中古DVDショップで何度も見たペネロペ・クルスの顔が大きく描かれた赤いDVDを思い出し、そしてまた、アンカラ・デ・エナーレスの夕方を思い出した。このDVDを買わなかったのは、リージョンコードの問題か、あるいは英語字幕ナシだったのだろう。スペイン映画初心者レベルなら、現地でDVDを買わなくても、日本語字幕付きで、しかも中古品ならかなり安く買えることがある。配信に関しては、私は知らない。

 早朝のワルシャワやロンドンのアールス・コートなど、思い出す場所が数多くあるのは、幸せなことだ。